【6:1】
『イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。』
ソロモンが宮の建設に取りかかったのは、出エジプトから『四百八十年目』でした。もうエジプトを出てから480年も経過していました。もうモーセやヨシュア、また士師たちもいなくなっています。長そうで実は短かった年月が流れ過ぎていました。この「480」という数字に何か象徴的な意味はあるのでしょうか。これには何も象徴性がないはずです。「480」という数字に聖書的な意味はありません。これを「240」かける「2」に分解しても意味は見出せません。「3」かける「160」に分解しても意味はないでしょう。「5」かける「96」という成り立ちは全く意味不明です。アウグスティヌスであれば「3」かける「160」という分解に興味を示しそうです。何故なら、この分解では同じ数字が3つあるからです。アウグスティヌスは、これを神の3位格として考えようとしたかもしれません。しかし、このような分解において神の位格を読み取ろうとするのは、かなり難しいのではないかと思われます。またこの神殿建設の始まった年は、『ソロモンがイスラエルの王となってから四年目』でした。つまり、ソロモンが王職に就いて幾らか安定してから、建設が始まったことになります。この「4」年目という数字は、ここで何も象徴性を持っていないはずです。神殿建設の始まったのは、この年の『ジブの月、すなわち第二の月』でした。古代イスラエルの暦では、それぞれの月に特定の名前が割り当てられていました。この『第二の月に』神殿建設が始まったのは、特に象徴性を持っていないはずです。
神はこうして出エジプトから480年目に御自分の宮を建てさせられました。神はそれまで長らく御自分の住まいとして幕屋で良しとしておられました。神はもちろん、もっと前に宮を建てさせることもおできになりました。しかし、神は480年後に建てられることを良しとされました。これは何故だったのでしょうか。これは神殿の建てられるべき時期があったからなのです。何事にもそれに相応しい時期というものがあります。種を蒔いたらすぐに実が生るということはありません。まだ文字も知らないのに四字熟語を学び始める子どもなどいません。宮が建設されるべき時期もあったのであり、それがソロモンの時代だったのです。このように神でさえ時期をしっかり弁えられました。ですから、私たちも神に倣い、何事であれ時期をしっかり弁えるべきでしょう。もし時期を弁えなければ悲惨になっても仕方がありません。ソロモンが『急ぎ足の者は躓く』と箴言で言っている通りです。