聖書の学び

聖書の学び

【ソロモン塾】箴言註解~1:3

『正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、』(1:3)

 

「正義」

これは一般的な意味合いと変わらない「正義」と考えて、問題ないはずだ。聖書では「正義」という言葉が実に多く書かれている。これは神の御心に適ったことである。寧ろ、これに欠けていると神に喜ばれることはできない。何故なら、神は義なる御方だからである。

 

「公義」

これは、人生や生活や人間関係に関わる全体的な道理また適切さを意味していると思われる。例えば、約束を守るとか、社会的に正しいことをするとか、きちんと謝罪する、などといったことである。こちらは「正義」よりも幅広い概念を含んでいる。つまり、「公義」のほうが全体的な意味合いが強い。ソロモンはこの巻でこう言っている。「公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」(13:23)これは一般的な道徳心を失った者が、貧しくなると教えている。その者はもう公義を持たないため、愚かな事柄に金を無駄遣いしたりして、無一文となるわけだ。

 

「公正」

これは前の2つより更に幅広い概念を含んでいる。日常生活における公平さとか、判断の道徳性など、全体的な道理を意味している。例えば、ばれないと思って釣り銭を少しだけごまかす者がいたとする。その者は「公正」に欠けている。

 

「思慮ある訓戒」

これは神が人に与える訓戒のことであろう。その訓戒は「思慮」に満ちている。神は一切を正しく適切に行なわれるからである。人間の訓戒であれば、やり過ぎたり、または不十分だったりすることも珍しくない。しかし、神の訓戒は、全てが適度である。神は、その訓戒を御言葉により与えられる。この箴言に書かれている御言葉も、そうである。

 

「体得するためであり、」

今書いたこれら4つの事柄を「体得するため」、この巻は書かれた。この巻にある御言葉を学べば、我々には神の英知が与えられる。すると、我々の知性は神の知性にまで高められる。こうして我々は、これら4つの事柄をよく弁えられるようになる。何が本当に正しいのか、道理に適うとはどういうことか、神の倫理を知るのがいかに大事か、といった事柄に疎くはなくなる。我々がこのようなことを弁えるのは御心であった。だからこそ、この巻が書かれ、聖書に収録されたのだ。こういうわけだから、この巻の学びを蔑ろにすることは決してできない。