聖書の学び

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Ⅱサムエル24:17~20(2023/06/16)

【24:17】
ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」』
 ダビデは、『民を打っている御使い』を、実際に自分の目で見ました。これは実に恐ろしい光景だったはずです。この御使いはただ一人だけだったはずです。というのも、これまでに見た箇所から、疫病を下す御使いは一人だけだったようだからです。ダビデはこの御使いを見て、自分がどれだけ悪いことをしたか強く実感したはずです。自分の犯した罪のせいで、『羊の群れ』すなわちイスラエルの民衆が疫病で死んでいるのです。このような現実を見たダビデは強い罪悪感に満ちたはずです。このため、ダビデは神の御手が自分と自分の家族に下されるよう願い求めます。つまり、ダビデとその家族が疫病で死ぬようになるということです。ダビデは死ぬつもりでこう言ったに違いありません。神がダビデにこの御使いを見させたのは、ダビデがこのように言うためだったはずです。もしダビデが御使いを見ていなければ、このように言うことはなかったかもしれません。

 

【24:18~19】
『その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」そこでダビデは、ガドのことばどおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。』
 ダビデは御手が自分に下されるよう懇願しましたが、神はダビデにそうされませんでした。これはダビデが真に悔いた態度を示したからです。先にも見た通り、『主のあわれみは深い』(Ⅱサムエル24:14)のです。主は憐れみ深いので、悔い改めた者に必要以上の厳しさで臨むことはなさいません。このため、主はガドを通し、ダビデが『エブス人アラウナの打ち場』に行き、そこで『主のために祭壇を築』くよう命じます。これはキリストを象徴する動物の犠牲により、ダビデが全く罪から清められるためです。ダビデは悔い改めたのですから、このような犠牲により、キリストの清めに与かるべきだったのです。この命令を受けたダビデは当然ながら命令通りに出かけました。

 

【24:20】
『アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏し、王に礼をした。』
 ダビデが家来たちを連れてアラウナのもとに行くと、それを見たアラウナは、王の前でひれ伏して敬意を示します。このアラウナは王を尊ぶしっかりした人だったのでしょう。だからこそ、主の使いはこのアラウナの土地に留まっていたのです(Ⅱサムエル24:16)。この時に『家来たち』がどのぐらいいたかは分かりませんが、別に分からなくてもどうということはありません。また、この時はダビデたちがやって来たのを『アラウナが見おろ』したのですから、アラウナの土地は高い場所にあったことが分かります。