聖書の学び

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Ⅰ列王記18:5~8(2024/05/17)

【18:5~6】
『アハブはオバデヤに言った。「国のうちのすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。たぶん、馬と騾馬とを生かしておく草を見つけて、家畜を殺さないで済むかもしれない。」ふたりはこの国を二分して巡り歩くことにし、アハブはひとりで一つの道を行き、オバデヤはひとりでほかの道を行った。』
 先に述べた通り、アハブがオバデヤを呼び寄せたのは、共にあることをするためでした。この時のイスラエルは飢饉に苦しんでいましたが、もしどこかで草を見つけたならば、アハブの所有する『家畜を殺さないで済むかもしれ』ませんでした。アハブのいた周辺地域では、草が見つからなかったのです。ですから、アハブは何とか草を見つけようとして、オバデヤと共に『国のうちのすべての水の泉や、すべての川に行ってみ』ようとします。家畜を殺さないで済むほうが良いに決まっているからです。この時のイスラエルは、この通り、家畜の食べる草さえ見つからないほどに厳しい飢饉がありました。こうしてアハブとオバデヤは『国を二分して巡り歩くことにし』ました。2人で同じ道を行くより、それぞれ別々の道を行ったほうが効率的だからです。このようにアハブが2人で協同しつつ草を見つけようとしたのは間違っていませんでした。伝道者の書からも分かる通り、2人で何かを協力して行なうのは良いことだからです。

 

【18:7~8】
『オバデヤがその道にいたところ、そこへ、エリヤが彼に会いに来た。彼にはそれがエリヤだとわかったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」エリヤは彼に答えた。「そうです。』
 オバデヤがアハブから離れて道にいると、『エリヤが彼に会いに来』ました。偶然にこうなったのではありません。このようにして2人が会うことこそ御心だったのです。このオバデヤは、それがエリヤだと分かったので、その前に『ひれ伏し』ます。これは敬意を示すためだったはずです。そこに崇拝性は無かったでしょう。もし崇拝の意味で『ひれ伏し』たとすれば、それは偶像崇拝となりますから、エリヤはオバデヤに注意していたはずです。しかし、これは敬意を示すためでしたから、エリヤは何も注意することがありませんでした。この時にオバデヤはエリヤを『主人』と呼んでいます。オバデヤの地上における肉的な主人は、言うまでもなくアハブ王でした。しかし、霊的な主人はエリヤだったと言うこともできます。何故なら、エリヤという存在の背後には神がおられたからです。これはエリヤが『神の人』と呼ばれる人だったことからも分かります。オバデヤは『非常に主を恐れていた』のですから、真の主人である神ゆえ、神の人であるエリヤを主人も同然の存在として取り扱ったわけです。つまり、オバデヤはエリヤを主人だと「見做した」というわけです。このような呼び方をエリヤは問題視せず、寧ろ『そうです。』と言って答え、自分がその呼び方通りの者であることを認めています。