聖書の学び

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Ⅰ列王記18:1~2(2024/05/15)

【18:1~2】
『それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリヤではききんがひどかった。』
 これまで『三年』の間、イスラエルでは雨が降りませんでした。その間、エリヤおよび女と女の息子は、尽きることがない粉と油により生きていました。それが尽きなかったのは神の働きかけでしたから、この3人は神から養われていたのです。しかし、その粉と油を調理して食事を作っていたのは女でした。ですから、エリヤは女にも養われていたと言うことができます。もしこの3人に神の御恵みが無かったとすれば、粉も油も無かったでしょうから、非常な悲惨に陥っていたかもしれません。この時になると、もう雨が降らなくなってから『三年目』でしたから、神は雨を降らせるようにされます。エリヤはかつて雨が降らない期間を『ここ二、三年』と言っていたからです。もう神は雨が降っても良い時とされたのです。

 

 この時になると、神はエリヤに『アハブに会いに行け。』と命じられました。このアハブ王は邪悪で不敬虔な神に喜ばれない王でした。彼は神に敵対していましたから、神の人であるエリヤにも敵対するのです。しかし、それでもエリヤはこのアハブと会わねばなりません。神の人にとって『主のことば』は絶対だからです。もし神の人が御言葉に従わなければ、もはや神の人であるとは言い難くなるでしょう。その場合、神は御自分に従わない神の人に対して怒りを燃やされるでしょう。このエリヤも、もし神の命令通り『アハブに会いに行』かなければ、神の怒りを燃え上がらせていたことでしょう。

 

 『そのころ、サマリヤではききんがひどかった』のは、イスラエル偶像崇拝に対する呪いがあったからです。偶然に起きた特に意味を持たない飢饉ではありませんでした。つまり、もしイスラエル偶像崇拝という邪悪に陥っていなければ、こういった『ききん』はそもそも起きていなかったということです。この『ききん』は、雨が降らないことにより生じたのです。雨が降らなければ作物が枯れてしまい、全く収穫できなくなるからです。虫食いとか病害による『ききん』ではなかったでしょう。この飢饉が3年間も続いたのは、神がイスラエル偶像崇拝に対し思い知らせるためでした。神に背いて偶像を拝む邪悪さがどれだけ酷く愚かであるか、ということをです。この飢饉は完全にイスラエルの邪悪が原因でしたから、イスラエルが飢饉により苦しみを味わったとしても自業自得で文句は言えませんでした。