聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記22:11(2024/09/21)

【22:11】
『そのとき、ケナアナの子ゼデキヤは、王のために鉄の角を作って言った。「主はこう仰せられます。『これらの角で、あなたはアラムを突いて、絶滅させなければならない。』」』
 多くの預言者が預言している中、『ケナアナの子ゼデキヤ』も預言しました。ゼデキヤは『鉄の角』を作り、その角で『アラムを突いて、絶滅させなければならない。』と言います。『角』とは聖書において権威の象徴です。つまり、これは神から与えられた力の権威により勝利せよ、という意味でしょう。この『角』は『鉄』制でした。これは力強く勝利できることを示していたのでしょう。その角は『これら』と書かれていますから、複数の角が作られたのです。しかし、その角における重量や大きさなどは分かりません。ここでゼデキヤが『主はこう仰せられます。』と言ったのは、後の箇所から分かる通り、『偽りを言う霊』によりました。ゼデキヤはこのように偽りを言うことで、アハブを惑わしたのです。これはアハブが呪われるべき罪深い堕落した歩みをしていたからでした。神はこのようにアハブが惑わされることで、罰として死ぬことを願われたのです。

Ⅰ列王記22:10(2024/09/20)

【22:10】
イスラエルの王と、ユダの王ヨシャパテは、おのおの王服を着て、サマリヤの門の入口にある打ち場の王の座に着き、預言者はみな、ふたりの前で預言していた。』
 アハブとヨシャパテは、『サマリヤの門の入口にある打ち場の王の座に着』いて、預言を聞いていました。『門』とは古代において今で言えば法廷の場所でした。そこでいつも公的な裁判が行なわれていたのです。しかし、この時は裁判のために集まったのではありません。この時は、預言を聞くために、この場所を用いていただけです。この時にアハブとヨシャパテは『おのおの王服を着て』いましたが、これはこの時に行なわれている営みが公的な営みだったからです。公的であれば『王服』を着るのが望ましいのです。私服では相応しくなかったでしょう。この場において『預言者はみな、ふたりの前で預言していた』のです。約400人もの預言者が、一つの場所で預言していたのは、今であれば想像することさえ難しい光景です。私たちがその光景を見たくても決して見れません。しかし、この時代はまだそういった光景が普通に見られたことでしょう。

Ⅰ列王記22:9(2024/09/19)

【22:9】
『そこで、イスラエルの王はひとりの宦官を呼び寄せ、「急いで、イムラの子ミカヤを呼んで来なさい。」と命じた。』
 アハブはミカヤを憎んでいましたから、その場に呼びたくなかったはずです。もし憎んでいなければ、もう既にミカヤを呼んでいたことでしょう。しかし、ヨシャパテの言葉がありましたから(8節)、どうしてもミカヤを呼ぶべき状況がありました。こうしてミカヤが呼ばれます。本来であればアハブはこうしなかったでしょう。彼は仕方なくこうしたはずです。アハブはミカヤを『急いで』呼ぶように命じます。これはヨシャパテもいたので、のろのろすべきではなかったからでしょう。王である客人(ヨシャパテ)を不快にさせるわけにはいかないのです。アハブはこのミカヤを『宦官』に呼ばせました。『宦官』とは去勢された国の役人であり、古代では何も珍しくありませんでした。イスラエル王国にも、この『宦官』がいたのです。彼らは王たちから重宝がられました。何故なら、宦官は去勢されているため野心的な反逆を決して企てず、従順かつ勤勉に働く性質を持っているからです。アハブがこの時に呼び寄せた宦官は『ひとり』でした。これは『ひとり』もいればミカヤを呼ばせるのに十分だからです。アハブの呼び寄せた『宦官』の詳細は分かりませんが、これは別に分からなくても全く問題ないことです。

Ⅰ列王記22:7、8(2024/09/18)

【22:7】
『ところが、ヨシャパテは、「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか。」と言った。』
 アハブに対して預言者は答えましたが、ヨシャパテは他の預言者がいないのかと言います。ヨシャパテはアハブに答えた預言者たちの答えに満足しなかったのです。これは恐らく、この預言者たちが「主はこう仰せられる。」と言わなかったからなのでしょう。真の預言者であれば「主はこう仰せられる。」と言うはずだからです。もし彼らがこう言っていたとすれば、ヨシャパテもこのようにアハブに言っていなかったでしょう。このようにしてアハブは約400人の預言者たちにより惑わされました。これはアハブの邪悪さが罰されるためでした。

 

【22:8】
『すると、ヨシャパテは言った。「王よ。そういうふうには言わないでください。」』
 アハブがミカヤを憎んでいると言ったのに対し、ヨシャパテは『そういうふうには言わないでください。』と応じます。つまり、アハブがミカヤを憎むのはとんでもないことだ、と言いたいのです。何故なら、ミカヤは正しい預言者だったからです。アハブがミカヤを憎むのは、実に忌まわしいことでした。何故なら、ミカヤは神に立てられた預言者だったからです。このようなミカヤを憎むのは、ミカヤを立てられた神を憎むのも同然です。誰もこのアハブのように神に立てられた正しい者を憎むべきではありません。それはソロモンがこう言っているからです。『正しい者を憎む者は罪に定められる。』

Ⅰ列王記22:8(2024/09/17)

【22:8】
イスラエルの王はヨシャパテに答えた。「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです。」』
 ヨシャパテの言葉を聞いたアハブは、『ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者』である預言者がいると答えました。その名は『ミカヤ』ですが、ここには集められていませんでした。すなわち、アハブは彼をこの場に連れて来させませんでした。何故なら、アハブは『彼を憎んでい』たからです。誰でも憎んでいる者とは一緒にいたくないものです。アハブが彼を憎んでいたのは、アハブについて『良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するから』でした。しかし、ミカヤがアハブにとり悪いことばかり預言したのは、アハブが悪い歩みをしていた邪悪な王だったからです。もしアハブが良い王であり、良い歩みをしていたならば、ミカヤもアハブについて悪いことばかり預言しなかったはずです。このミカヤは正しい預言者でした。しかし、アハブは神に喜ばれない邪悪な王でした。このアハブもそうでしたが、邪悪な者は往々にして正しい者を憎むものです。

Ⅰ列王記22:6(2024/09/16)

【22:6】
『彼らは答えた。「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」』
 アハブが預言者たちに尋ねたら、戦うようにとの答えを受けました。『上って行きなさい。』とは、ラモテ・ギルアデにです。もしラモテ・ギルアデに上れば、アハブたちはアラムに勝てると預言者たちは示します。神が『王の手に』アラムを『渡されます』と言うのです。もしこの答えが本当であれば、アハブは絶対に上るべきでした。もし上らなければ、御心を損ない、罪を犯すこととなるのです。しかし、この答えは、後の箇所からも分かる通り、偽りの答えでした。これはアハブが呪われていたからです。アハブはこの通り惑わされるようにされました。それはアハブが戦うことで死ぬことになるためだったのです。

Ⅰ列王記22:6(2024/09/15)

【22:6】
『彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」』
 ヨシャパテに言われた通り、アハブは預言者たちに伺い、『主のことば』を受けようとしました。アハブがこうしたのは完全に正しいことでした。しかし、アハブがヨシャパテに促されていなければ、このように伺っていたかどうかは分かりません。その場合、もしかしたら、アハブは伺いをせず、自分の思うままに突き進んでいた可能性もあります。アハブは、はっきりどうすべきか神の指示を求めています。これは、つまり御心であれば戦い、御心でなければ戦わないと言っているのも同然です。ここでアハブは、伺いを具体的な内容により立てています。私たちも神に伺う際は、このような具体性をもって伺うべきでしょう。