聖書の学び

聖書の学び

【ソロモン塾】箴言註解1:15~16

『わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。』(1:15)

ソロモンは、邪悪な罪人たちに決して組するなと命じる。ほんの少しでさえ、彼らの悪い道に入り込んではならない。彼らとその悪から遠ざかるべきなのだ。遠ざかれば遠ざかるほど、悪の道を避けられる。興味本位で彼らの邪悪な歩みを体験しようとしたり、少しだけならなどと思って協働する、ということもいけない。そのようにすれば、結局は深みに引きずり込まれないからである。ちょっとしたきっかけが、悪への潤滑剤になることはあり得る。だから、僅かなきっかけさえも断ち切るべきである。

 

『彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。』(1:16)

忌まわしい罪人は、とにかく早めに人を殺し、急いで血を流したいと望んでいる。速ければ速いほど彼らにとっては好ましい。何故なら、それだけ速やかに富むことができるからである。殺しが遅くなるほど、彼らには不満となる。それは富むまでの時間が伸びることを意味するからだ。すぐに富むため、すぐに殺しの強奪を望む。これは何と忌まわしいことであろうか。だから、もし彼らの悪しきオファーに乗り、その仲間となるなら、我々も邪悪な行ないに染まってしまう。神の子とされた聖なる民である我々が、正しい道を捨て、強奪の殺人ゲームに陥る。こんなことはあっていいはずがない。「悪を憎み、善に親しみなさい。」と使徒パウロが言った通り、我々は彼らの悪しき道から遠ざかり、正しい歩みを求めるべきである。

【ソロモン塾】箴言註解1:13~14

『あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」』(1:13~14)

 

「あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。」

邪悪な罪人たちは、どのような宝物をも得ようとする。それは自分たちを宝物で富ませるためである。ここで言われている「宝物」とは、何か冒険めいたことを想像すべきではない。ここでは、例えばどこかの島に行って海賊の残した宝物を探そうなどと言われているのではない。そうではなく、殺人により正しい者の持つ宝物を奪い取ろうと言われている。それは「分捕り物」と言われていることからも分かる。正しい者を殺せば、その者の持つ財物は、もはや所有者がいなくなる。それを自分たちの所有とするのが彼らの求めていることなのだ。このような罪人にとり、人の命などはどうでもいい。彼らは、ただ強奪することしか心にない。正にサタンの心と同じになっているわけである。

 

「おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」

サタンに憑かれた罪人は、正しい者を「くじ」で誘いかける。「くじを引き」とは、つまり平等で誘いを持ちかけている。「くじ」で何かを決めるのは、完全に平等なことだからである。彼らは、単に口先だけで「くじ」による平等を訴えるのではない。本当に平等とさせるつもりなのである。何故なら、そのほうが悪を行なう仲間として相応しいし、何かと都合が良いからだ。「一つの財布を持とう」と誘いかけるのも、要するに仲間になれば皆が平等なのだと訴えている。上下関係や奴隷的な立場に置かれるということはない。このようにすればオファーの成功率も高まる。彼らは何とか悪の仲間を増やしたい。だから、上下関係を作らない平等性を重視する。つまり、罪人たちは純粋に「仲間とならないか?」と持ちかけてくる。アーロン・ルッソも、このようにしてニック・ロックフェラーから誘いを受けた。しかし、これこそサタンの詐術である。彼らにとって、奴隷関係を作って仲間が増えないより、平等でも仲間が増えたほうが望ましいのである。誰でも平等なんだよと聞けば心が動かされることにもなろう。だが、このような悪しき誘いの場合は、それに乗ってはならない。

【ソロモン塾】箴言註解1:12

『よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。』(1:12)

 

「よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、」

忌まわしい罪人たちは、正しい罪のない者を「よみのように」「生きたままで」死なそうとする。「のみこみ」とは、つまり殺すことである。「よみ」は、地獄を意味する。この地獄には、死んでから「生きたまま」入る。何故なら、死んだら地獄で苦しむための人生が与えられるからである。それは「第二の死」であり、もはや生きていると言い難いのだが、しかし存在しているという意味で生きている。全く死んで意識もないような状態であれば、地獄で苦しむも何もないからである。だから、人は死んでも、事実上は地獄で生命が継続される。このため、「よみ」すなわち地獄は人を「生きたままで、のみこ」むわけである。キリストが語られた金持ちも、やはりこうであった。あの金持ちは死んでから地獄に行った。しかし、地獄で死んでいるものの、ある意味において生きている。だから、遥か彼方に見えたアブラハムに対し、この金持ちは憐れみを求めたのである。この金持ちも、死んだが生きたまま地獄に呑み込まれたことがよく分かる。要するに、罪人たちは正しい者たちを殺し、この地獄に行く者のようにしたい。「すぐにも別の世界に行ってしまえ」と願うのである。これは彼ら自身の悪しき願いである。しかし、それは彼らに憑りついているサタンの願いでもある。つまり、両者が共に同じことを願っているのだ。

 

「墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。」

「墓」とは文字通りの意味である。「墓に下る者」も文字通りで、死んで墓に入る者のことを意味している。サタンに憑りつかれた罪人どもは、罪のない正しい者を殺して墓に入れさせたい。そうすれば財物などを奪い取り、懐を肥やすことができるからだ。彼らはただ利益のために殺すことしか考えていない。何と邪悪で忌まわしいことだろうか。だから、ソロモンは彼らに決して組するなと命じている。

【ソロモン塾】箴言註解1:11

『もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、』(1:11)

 

「もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。」

「もしも」とある通り、先にも述べたが、ここで言われている内容は想定された事柄である。極悪の罪人だからといって、全ての人が正しい者を惑わすとは限らない。また正しい者であれば、誰でも悪魔的な罪人からオファーを受けるというのでもない。惑わす罪人は惑わすし、惑わされる人は惑わしを受ける。全ては神の御計画と御心による。

 

「われわれは人の血を流すために待ち伏せし、」

サタン的な罪人たちは、「人の血を流す」ことを望み願う。彼らには善悪の感覚が失われている。完全に倫理的な麻痺状態がある。サタンに憑りつかれているため、サタンのように善悪を弁えることがない。寧ろ、彼らにとっては悪こそ正しさと見做される。罪人は、人殺しをするため「待ち伏せし」ようとする。そうすれば、タイミングよく殺せるからだ。このほうが色々とやりやすくなるのである。しかし、このような待ち伏せは、神の御前で罪に定められる。神は、律法でこう言われた。「あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。」心の中で誰かの血を流そうと考えるだけでも、神はそれを罪とされる。だから、実際に待ち伏せするとすれば、尚のこと罪深くなる。このように正しい者を惑わす罪人たちは、何と邪悪なことだろうか。

 

「罪のない者」

邪悪な罪人は「罪のない者」を狙う。ここで言われているのは、社会的に潔白な遵法市民のことである。つまり、普通に生活している一般的にまともと見做されている人である。既に述べた通り、あらゆる人間は神の御前で罪深い。使徒が述べた通り、「義人はいない。一人もいない。」のである。だから、神の御前で罪のない者は誰もいない。しかし、ここでは一般的な意味合いにおける「罪のない者」が言われている。

 

「理由もなく、こっそりねらい、」

彼らは、潔白な者を殺すため、理由もないのに狙う。命を奪えば、財物を横取りできるからである。その対象である人が富んでいるほどに、狙う価値と意味も高まる。このようにして彼らは自分たちが富み栄えるようにする。「こっそりねら」うのは、色々と上手にやり遂げるためである。もし派手にやれば、騒ぎや警察沙汰となるため、リスクが高くなる。自分の身を守りつつ、ターゲットの血を流すわけだ。何と邪悪で忌まわしいことだろうか。このように「理由もなく」正しい者を狙う点に、彼らの極めて重い罪深さがある。

【ソロモン塾】箴言註解1:10

『わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。』(1:10)

 

「わが子よ。」

既に述べた通り、これは実際の血縁関係のことではなく、我々がソロモンから子のように教えられるという意味合いである。これについてはもう既に十分なだけ書いたから、今後は繰り返し説明しなくてもよいであろう。

 

「罪人たちが」

聖書は、全ての人間が神の御前で罪深いと教えている。聖書には「全人類が罪を犯した」とある。神の御前で罪人でない人間はいない。それゆえ、「義人はいない。一人もいない。」と使徒パウロは述べている。しかし、ここで言われている「罪人たち」とは、全人類を意味していない。文脈から明らかな通り、ここでは特別に邪悪な悪人のことが言われている。後ほど見るように、人殺しをするような極悪の罪人である。だから、一般の人々はここで言われている「罪人」に該当しない。もっとも、神の守りを失えば、誰でもそのような悪人に成り果てる可能性はあるのだが。

 

「あなたを惑わしても、」

上で述べたような「罪人たち」は、まだ悪に染まっていない我々を「惑わして」くることがある。それは罪人たちが仲間を求めているからだ。自分と同じ悪い仲間が増えれば、利益が多くなり、悪も行ないやすくなり、喜びも強まる。何と忌まわしいことだろうか。だが、そのように邪悪な仲間を増やすため惑わすのは、罪人の罪深い性質なのである。しかし、全ての極悪な罪人が必ず我々を惑わすというのではない。中には一人でいようとする、あるいは今の仲間だけで満足している、というような者たちもいるはずである。つまり、ここでは「罪人がもし我々を惑わしたならば」という仮定において言われている。

 

「彼らに従ってはならない。」

ソロモンは、邪悪な罪人が我々を惑わしても「従ってはならない」とここで命じる。何故なら、我々は主の聖なる民であって、清く正しく歩むべきだからである。詩篇にはこう書いてある。「主を愛する者たちよ。悪を憎め。」主を愛する者たちは、罪人たちに惑わされて悪へと陥ってはならないのである。彼らに組せず、正しさのうちに留まるならば、我々は神の恵みを失わないであろう。だが罪人たちに惑わされて堕落するなら、神の呪いを受けて惨めとなる。

【ソロモン塾】箴言註解1:9

『それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。』(1:9)

 

前節(1:8)で言われた「父の訓戒」と「母の教え」を保つのは、我々にとり「頭の麗しい花輪」また「首飾り」であるとソロモンは教える。父の訓戒と母の教えが、花輪と首飾りのどちらに対応しているのかと難しく考える必要はない。前者の2つは、どちらも後者の2つに対応している。確かに、我々が父母の言葉を保つならば、それは我々の飾りとなる。もちろん、これは実際的なことを言っているのではない。すなわち、もし父母の言われた通りにすれば、何か自然と飾りが体に生じるなどと言われているのではない。これは象徴的な表現である。つまり、父の訓戒と母の教えを大切に守る者は、神の御前で喜ばしい飾りを付けた者として見做されるのである。我々は、素晴らしい飾りで見栄えの良くなった人を見れば、好ましい印象を感じるであろう。父母の言葉を保持する者も、そのように神から好印象を持たれる。そのような者は、神に喜ばれ、御心に適っている。だから、祝福されるであろう。父母の言葉を守るその行ないにおいて祝福される。我々が父母の言葉を大切にするほど、神の御前で多くの飾りを付けることになる。飾りが多いほど、祝福もまた増し加えられる。一方で、父の訓戒も母の教えも守らない者は、神に喜ばれない。そのような者は御心に適わないであろう。すると祝福もされなくなる。我々は、何の飾りも付けていない惨めで貧相なぼろぼろの者を見て、あまり好ましい印象を持たないであろう。そのように神も、父と母の言葉を蔑ろにする者を良く思われない。2人の人物がいたとしよう。①:素晴らしい飾りを実際に多く纏っているが父母の訓戒は守っていない者。②:何の飾りもないが父母の言われた通りにしている者。①の者は、人間からは装飾を付けていると見えても、神の御目には何の装飾も付けていないと見做される。②の者は、実際的に装飾を付けていないが、神の御前で飾り立てられた者とされる。①の者は御心に適わないが、②の者は神に喜ばれる。

【ソロモン塾】箴言註解1:8Ⅱ

『あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。』(1:8Ⅱ)

 

「あなたの父」

すぐ前に「わが子よ」と書かれていたのは、象徴的な表現であった。比喩として言えば、全ての人はソロモンに対する子である。何故なら、ソロモンには神の英知が与えられたため、我々は子どものように教えられるしかないからである。実際、諸国から人々がソロモンの教えを求めてイスラエルに訪れ、子どものように学んだのである。だが、ここで「父」と言われているのは、象徴的な意味合いではない。こちらのほうは実際上の父である。つまり、ソロモンは教え子としての我々に対し、血縁関係を持つ父のことを述べているわけである。だから、ここで「あなたの父」と書かれているのをソロモンのことだと捉えるのは誤っている。象徴と実際の区別をせねばならない。

 

「訓戒に聞き従え。」

実際の父からは、誰でも多かれ少なかれ「訓戒」を受けるであろう。何らかの事情により父を知らないような子どもでもない限り、確かにそうである。だが、そのようなケースは例外として考慮しなくてもよい。ここで「訓戒」と言われているのは、一般的な内容のことである。ソロモンは、その訓戒に「聞き従え」とここで命じている。他の箇所でも、ソロモンは同じことを言っている。「あなたを生んだ父の言うことを聞け。」我々が父の「訓戒に聞き従」うのは、御心に適っている。何故なら、神は「父を敬え」と命じられたからである。父を敬うならば、当然ながらその訓戒に聞き従うべきであろう。そのようにする者は、神に喜ばれる。神は、そのような父の訓戒に聞き従う子において、御自分と御子との関係を感じられるからである。福音書から分かる通り、御子は完全に御父に聞き従われた。そのような関係を象徴する子は、神の御心に適うため、祝福を受けられる。しかし、それはあくまでも「主にあって」である。パウロも、やはりそのように言っている。「子どもたちよ。主にあって自分の父に従いなさい。」つまり、もし父の訓戒が神の御心に反するならば、それを守るのは御心でない。その場合、寧ろ父の訓戒に聞き従うのは罪を犯すことになる。聖徒たちは、父よりも主を優先せねばならない。キリストはこう言われた。「私よりも自分の父や母を愛する者は、私に相応しい者ではありません。」

 

「あなたの母の教えを捨ててはならない。」

誰でも人は母から教えを受けるものだ。もちろん、母を何らかの理由で持たない者は別である。しかし、そのようなケースは例外として考慮しなくてもよいであろう。ここで「教え」と言われているのも、やはり日常的だったり生活のことなど一般に関する事柄である。例えば、子どもが母から「誰かに良くしてもらったらお礼を言いなさい。」と言われたとする。これは間違いなく「母の教え」であろう。ソロモンは、そのような「母の教えを捨ててはならない」と命じる。それは生涯に渡って守られ、保持されるべきことである。子どもの時期にだけ限定される内容でもない限りは、そうである。これも、やはり神の御心に適っている。神は父だけでなく「母を敬え」とも命じられた。母を敬うとは、つまり母の教えを大切にすることである。そのようにする者は御心に適っているため、神の祝福を受けられる。神は、我々が母の教えを守ることにおいて恵みを注がれる。だから、そのような人には幸いがあるであろう。だが、これも先の場合と同様で、もし罪を犯すことになるなら、守るより寧ろ捨てねばならない。例えば、母が「正月には神社でしっかり参拝するのよ」と我々を教えたとしよう。この教えを大切に守るなら、神に対し罪を犯すこととなるため、守ることはできない。当然ながら、ソロモンは神の御心を損ねてまで母の教えを大切にせよと命じているのではない。