聖書の学び

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【ソロモン塾】箴言註解1:22

『わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。』(1:22)

 

「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。」

「わきまえのない者」とは、道理に疎く、常識や一般性を理解しない者である。このような者は、昔も今も、多くの場所で存在する。彼らには思慮が欠けている。例えば、旅行の日や記念日があるというのに、何も準備や配慮をしておかない。だから、直前になって大慌てしたりする。これほど「わきまえのない」ことがあるだろうか。古代ユダヤ人も、神の民でありながら、延々と偶像崇拝を行ない続けていた。これも、やはり「わきまえのない」ことである。このような者たちには知恵がない。だから、弁えを持てないのである。寧ろ、彼らは「わきまえのないことを好む」。

 

「あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、」

「あざける者」とは、叱責や訓戒を受けても、それを聞かず、愚弄する者のことである。彼らは「俺に指図するのは何なのか」という口ぶりで、教えてくれたりした人を嘲る。このような者も今に至るまで珍しくない。彼らが嘲るのは、高慢がその理由だ。精神が高ぶっているため、自分に対する教えや命令を低い姿勢で受け入れらず、かえって苛立つ。遜るのは高慢な心に相応しくないからである。彼らは自分に語りかけた人を嘲るのが楽しい。嘲るならば優越を味わえるからである。というのも「嘲る」とは、その嘲った相手を自分よりも下に置くことだからだ。このような者も、やはり知恵がない。知恵に欠けているため、叱責や教えに対して遜れば益を得られることが分からないのである。彼らは知恵を持たないため、「いつまで」も「あざけりを楽しみ」続ける。

 

「愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。」

「愚かな者」は、知恵がないため、「知識を憎む」。愚かであるため、知識が自分に齎す益と意味を悟れないのである。その者は、知識が自分を何か抑圧し縛り付けるようなものであると感じる。征服されて自分が奴隷化するように思えてしまう。だから、そのような知識を憎むことになる。彼にとって知識は敵でしかない。愚かであるほど、知識を憎む度合いも強まる。少しだけ愚かなら、知識を憎む度合いも少しだけとなる。何故なら、知恵と愚かさは反比例しているからである。

 

ここで言われている、「弁えのなさ」「嘲り」「知識への嫌悪」という3つの事柄は、知恵により癒され、解消される。知恵とは、弁えを人に持たせる理性的な働きだからである。また知恵により、正しいことを嘲る態度も消し去られる。そして知恵は知識を喜ぶようにもさせる。ところが知恵がないと、この3つの全て、もしくはどれかが欠けた状態となる。

【ソロモン塾】箴言註解1:20~21

『知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。』(1:20~21)

 

「知恵」

ここで言われているのは、全般的な知恵という意味に捉えてよいであろう。何か特別な知恵について言われていると考える必要はない。

 

ここでは「知恵」が擬人法を用いて示されている。「もし知恵が人間であったら次のように言うであろう」という仮定で言われている。実際に知恵が何か具体的に話すというわけではない。だが、知恵はそれ自体が暗黙のうちに、これから見るようなことを我々に対し叫ぶのである。この知恵は「ちまたで大声で叫び」声を出す。知恵がそこに入れば、ちまたにいる人々は、知恵の叫びを聞く。知恵がそれ自身においてその正しさを主張するからである。また知恵は「広場でその声をあげ」る。古代において「広場」は、討論したり話し合ったりする場所であった。そこでも知恵が聞かれるなら、人々は知恵の声を聞かざるを得ない。知恵自身が無言のうちに「私は正しい」と我々に自己を示すからである。そして知恵は「騒がしい町かどで叫び」声も出す。町がどれだけ騒がしくても、知恵の叫びは人々の精神に感じ取られる。知恵は、それ自体からして絶対的な道理の正しさを我々に突きつけるからである。更に知恵は「町の門の入口で語りかけ」る。「門の入口」は、古代において法廷の意味も持っていた。そこで人々の訴えや判決などがされていた。そこでも知恵は、やはり自己自身の正しさを無言のうちに叫び立てるのである。要するに、知恵はどこであっても、人間に対して自己の正しさを示して叫ぶ。ここで「ちまた」「広場」「町かど」「門の入口」と明白に4つの場所が言われているのは、<世界のどこでも>という意味に解せる。何故なら、聖書において「4」は世界全体を意味するからである。聖書において世界は「地の四隅」また「東西南北」の4方向から成り立つ場所として語られている。

【ソロモン塾】箴言註解1:19

『利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。』(1:19)

 

「利得をむさぼる者」とは、これまでに見た邪悪な罪人のことである。殺人と強奪により自分たちを富まそうとするサタンの輩である。彼らは極悪の罪により稼ぎを得ようとするため、神に忌み嫌われる。

 

このような者たちは、神に嫌われるため、大きな呪いを受ける。だから、その道半ばで命を失ってしまう。罪に対する神の罰があるのだ。しかし、大きな悪を犯しているのだから文句は言えない。エレミヤ書でも、同じことが言われている。「公義によらないで富を得ようとする者がある。彼の道半ばで富が彼を置き去りにし、その末は痴れ者となる。」エレミヤ書のほうでは、罪人の子孫が痴呆になるとも書かれている。神は子孫まで呪うことにより、御自分の不快感がどれほど大きいか示される。この通り、彼らは自分の寿命を全うできず、途中で人生が止まることになる。このような罪人に組すれば、我々も極悪の罪に手を染めることになる。すると、我々まで彼らと同じ呪いを受けるであろう。正しく歩むようキリストにより召された聖徒たちが、その歩みを捨てて罪人たちの極悪に陥る。これは決してあってはならないことである。だから、ソロモンは我々が彼らのオファーに乗らないようにと戒めているわけである。罪人たちは霊的な目が見えていないため、先にも述べた通り、このことを悟れない。だが我々はこのように教えられて弁えることができた。よって、我々は罪人たちの道を避け、正しい歩みから逸れないようにすべきである。

【ソロモン塾】箴言註解1:17~18

『鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。』(1:17)

ソロモンは、邪悪な罪人が正しい者の命を狙うことを、鳥の見ている場所で網を張ることに例えている。これは比喩的なことだ。実際に鳥が見ている場所で、鳥を捕らえるために網を仕掛けても、無意味となる。鳥は網の場所をよく知っているから、決してそこに行かない。罪人が正しい者を狙う企みも、これと変わらず全く無意味となる。ところで、ここで言われている「鳥」は象徴的な表現であろうか。つまり、鳥という言葉で何か別の存在を指し示しているのだろうか。例えば、神または御使いを象徴しているのか。ここでは、単に罪人の悪しき企みが無意味であることを示しているだけであろう。つまり、この「鳥」は文字通りの意味で鳥と捉えればよい。このように罪人は虚しい企みをするが、その無意味さに気付けない。その目がよく見えておらず、心で悟ることもできないからである。このようにして神は彼らを思い違いの中に沈み込ませられる。

 

『彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。』(1:18)

ここでソロモンが言っていることは重要である。ソロモンは、罪人が正しい者の血を流そうとするのは、「自分の血を流」すことだと述べている。また罪人が正しい者の命を奪おうと狙うのも、自分の命を狙っていることだと教えている。これは驚くべきことである。だが、ソロモンが神の英知によりこう語ったのだから、確かにそうなのである。それでは、どうしてそうなのだろうか。その理由はこうである。忌まわしい罪人が正しい者を殺そうとするのは、神の御前で大きな罪となるため、結局は自分たちが呪われて死んでしまう。聖書は、「正しい者を憎む者は罪に定められる」と述べている。ソロモンは「正しい者は何の災いにも会わない」と述べた。このため、罪人が正しい者を狙っても、正しい者は守られる一方で、逆に罪人のほうが呪われて命を失ってしまう。これの良い例はコラとその一味であろう。コラたちは、モーセに反逆し、もしできるならモーセの命を奪っていたはずである。だがモーセは正しい人であった。だから、コラたちの反逆は失敗し、神の罰により地面に呑み込まれて死に絶えた。民数記に書かれている通りである。要するに、コラたちはモーセの命を奪おうとしたが、逆に自分たちの命を失わせてしまった。正にここでソロモンが言っている通りである。ダビデの例もある。ダビデには多くの敵がおり、命を常に狙われているような時も多かった。だが詩篇からも分かる通り、ダビデは神の御前で潔白であった。このため、ダビデの敵たちは、逆に自分たちが命を失ってしまった。サウル王もダビデの命を狙ったが、結局は自分のほうが死んでしまった。だから、ダビデの敵もダビデを殺そうとしながら、自分を殺そうとしていたのである。これは真実なことである。だが、邪悪な罪人たちは、このことが分からない。何故なら、ここで書かれているソロモンの英知を聞いたことがないからである。神の聖徒たちでさえ、この箇所を読まなければ、このことが分からない人も多いであろう。この箇所を読んで初めてこのことが悟れる。このため、罪人はまさか自分で自分の命を狙っていると知らないまま、平気で正しい者を殺そうと無駄に企むのである。

【ソロモン塾】箴言註解1:15~16

『わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。』(1:15)

ソロモンは、邪悪な罪人たちに決して組するなと命じる。ほんの少しでさえ、彼らの悪い道に入り込んではならない。彼らとその悪から遠ざかるべきなのだ。遠ざかれば遠ざかるほど、悪の道を避けられる。興味本位で彼らの邪悪な歩みを体験しようとしたり、少しだけならなどと思って協働する、ということもいけない。そのようにすれば、結局は深みに引きずり込まれないからである。ちょっとしたきっかけが、悪への潤滑剤になることはあり得る。だから、僅かなきっかけさえも断ち切るべきである。

 

『彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。』(1:16)

忌まわしい罪人は、とにかく早めに人を殺し、急いで血を流したいと望んでいる。速ければ速いほど彼らにとっては好ましい。何故なら、それだけ速やかに富むことができるからである。殺しが遅くなるほど、彼らには不満となる。それは富むまでの時間が伸びることを意味するからだ。すぐに富むため、すぐに殺しの強奪を望む。これは何と忌まわしいことであろうか。だから、もし彼らの悪しきオファーに乗り、その仲間となるなら、我々も邪悪な行ないに染まってしまう。神の子とされた聖なる民である我々が、正しい道を捨て、強奪の殺人ゲームに陥る。こんなことはあっていいはずがない。「悪を憎み、善に親しみなさい。」と使徒パウロが言った通り、我々は彼らの悪しき道から遠ざかり、正しい歩みを求めるべきである。

【ソロモン塾】箴言註解1:13~14

『あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」』(1:13~14)

 

「あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。」

邪悪な罪人たちは、どのような宝物をも得ようとする。それは自分たちを宝物で富ませるためである。ここで言われている「宝物」とは、何か冒険めいたことを想像すべきではない。ここでは、例えばどこかの島に行って海賊の残した宝物を探そうなどと言われているのではない。そうではなく、殺人により正しい者の持つ宝物を奪い取ろうと言われている。それは「分捕り物」と言われていることからも分かる。正しい者を殺せば、その者の持つ財物は、もはや所有者がいなくなる。それを自分たちの所有とするのが彼らの求めていることなのだ。このような罪人にとり、人の命などはどうでもいい。彼らは、ただ強奪することしか心にない。正にサタンの心と同じになっているわけである。

 

「おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」

サタンに憑かれた罪人は、正しい者を「くじ」で誘いかける。「くじを引き」とは、つまり平等で誘いを持ちかけている。「くじ」で何かを決めるのは、完全に平等なことだからである。彼らは、単に口先だけで「くじ」による平等を訴えるのではない。本当に平等とさせるつもりなのである。何故なら、そのほうが悪を行なう仲間として相応しいし、何かと都合が良いからだ。「一つの財布を持とう」と誘いかけるのも、要するに仲間になれば皆が平等なのだと訴えている。上下関係や奴隷的な立場に置かれるということはない。このようにすればオファーの成功率も高まる。彼らは何とか悪の仲間を増やしたい。だから、上下関係を作らない平等性を重視する。つまり、罪人たちは純粋に「仲間とならないか?」と持ちかけてくる。アーロン・ルッソも、このようにしてニック・ロックフェラーから誘いを受けた。しかし、これこそサタンの詐術である。彼らにとって、奴隷関係を作って仲間が増えないより、平等でも仲間が増えたほうが望ましいのである。誰でも平等なんだよと聞けば心が動かされることにもなろう。だが、このような悪しき誘いの場合は、それに乗ってはならない。

【ソロモン塾】箴言註解1:12

『よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。』(1:12)

 

「よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、」

忌まわしい罪人たちは、正しい罪のない者を「よみのように」「生きたままで」死なそうとする。「のみこみ」とは、つまり殺すことである。「よみ」は、地獄を意味する。この地獄には、死んでから「生きたまま」入る。何故なら、死んだら地獄で苦しむための人生が与えられるからである。それは「第二の死」であり、もはや生きていると言い難いのだが、しかし存在しているという意味で生きている。全く死んで意識もないような状態であれば、地獄で苦しむも何もないからである。だから、人は死んでも、事実上は地獄で生命が継続される。このため、「よみ」すなわち地獄は人を「生きたままで、のみこ」むわけである。キリストが語られた金持ちも、やはりこうであった。あの金持ちは死んでから地獄に行った。しかし、地獄で死んでいるものの、ある意味において生きている。だから、遥か彼方に見えたアブラハムに対し、この金持ちは憐れみを求めたのである。この金持ちも、死んだが生きたまま地獄に呑み込まれたことがよく分かる。要するに、罪人たちは正しい者たちを殺し、この地獄に行く者のようにしたい。「すぐにも別の世界に行ってしまえ」と願うのである。これは彼ら自身の悪しき願いである。しかし、それは彼らに憑りついているサタンの願いでもある。つまり、両者が共に同じことを願っているのだ。

 

「墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。」

「墓」とは文字通りの意味である。「墓に下る者」も文字通りで、死んで墓に入る者のことを意味している。サタンに憑りつかれた罪人どもは、罪のない正しい者を殺して墓に入れさせたい。そうすれば財物などを奪い取り、懐を肥やすことができるからだ。彼らはただ利益のために殺すことしか考えていない。何と邪悪で忌まわしいことだろうか。だから、ソロモンは彼らに決して組するなと命じている。