聖書の学び

聖書の学び

【ソロモン塾】箴言註解1:17~18

『鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。』(1:17)

ソロモンは、邪悪な罪人が正しい者の命を狙うことを、鳥の見ている場所で網を張ることに例えている。これは比喩的なことだ。実際に鳥が見ている場所で、鳥を捕らえるために網を仕掛けても、無意味となる。鳥は網の場所をよく知っているから、決してそこに行かない。罪人が正しい者を狙う企みも、これと変わらず全く無意味となる。ところで、ここで言われている「鳥」は象徴的な表現であろうか。つまり、鳥という言葉で何か別の存在を指し示しているのだろうか。例えば、神または御使いを象徴しているのか。ここでは、単に罪人の悪しき企みが無意味であることを示しているだけであろう。つまり、この「鳥」は文字通りの意味で鳥と捉えればよい。このように罪人は虚しい企みをするが、その無意味さに気付けない。その目がよく見えておらず、心で悟ることもできないからである。このようにして神は彼らを思い違いの中に沈み込ませられる。

 

『彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。』(1:18)

ここでソロモンが言っていることは重要である。ソロモンは、罪人が正しい者の血を流そうとするのは、「自分の血を流」すことだと述べている。また罪人が正しい者の命を奪おうと狙うのも、自分の命を狙っていることだと教えている。これは驚くべきことである。だが、ソロモンが神の英知によりこう語ったのだから、確かにそうなのである。それでは、どうしてそうなのだろうか。その理由はこうである。忌まわしい罪人が正しい者を殺そうとするのは、神の御前で大きな罪となるため、結局は自分たちが呪われて死んでしまう。聖書は、「正しい者を憎む者は罪に定められる」と述べている。ソロモンは「正しい者は何の災いにも会わない」と述べた。このため、罪人が正しい者を狙っても、正しい者は守られる一方で、逆に罪人のほうが呪われて命を失ってしまう。これの良い例はコラとその一味であろう。コラたちは、モーセに反逆し、もしできるならモーセの命を奪っていたはずである。だがモーセは正しい人であった。だから、コラたちの反逆は失敗し、神の罰により地面に呑み込まれて死に絶えた。民数記に書かれている通りである。要するに、コラたちはモーセの命を奪おうとしたが、逆に自分たちの命を失わせてしまった。正にここでソロモンが言っている通りである。ダビデの例もある。ダビデには多くの敵がおり、命を常に狙われているような時も多かった。だが詩篇からも分かる通り、ダビデは神の御前で潔白であった。このため、ダビデの敵たちは、逆に自分たちが命を失ってしまった。サウル王もダビデの命を狙ったが、結局は自分のほうが死んでしまった。だから、ダビデの敵もダビデを殺そうとしながら、自分を殺そうとしていたのである。これは真実なことである。だが、邪悪な罪人たちは、このことが分からない。何故なら、ここで書かれているソロモンの英知を聞いたことがないからである。神の聖徒たちでさえ、この箇所を読まなければ、このことが分からない人も多いであろう。この箇所を読んで初めてこのことが悟れる。このため、罪人はまさか自分で自分の命を狙っていると知らないまま、平気で正しい者を殺そうと無駄に企むのである。

【ソロモン塾】箴言註解1:15~16

『わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。』(1:15)

ソロモンは、邪悪な罪人たちに決して組するなと命じる。ほんの少しでさえ、彼らの悪い道に入り込んではならない。彼らとその悪から遠ざかるべきなのだ。遠ざかれば遠ざかるほど、悪の道を避けられる。興味本位で彼らの邪悪な歩みを体験しようとしたり、少しだけならなどと思って協働する、ということもいけない。そのようにすれば、結局は深みに引きずり込まれないからである。ちょっとしたきっかけが、悪への潤滑剤になることはあり得る。だから、僅かなきっかけさえも断ち切るべきである。

 

『彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。』(1:16)

忌まわしい罪人は、とにかく早めに人を殺し、急いで血を流したいと望んでいる。速ければ速いほど彼らにとっては好ましい。何故なら、それだけ速やかに富むことができるからである。殺しが遅くなるほど、彼らには不満となる。それは富むまでの時間が伸びることを意味するからだ。すぐに富むため、すぐに殺しの強奪を望む。これは何と忌まわしいことであろうか。だから、もし彼らの悪しきオファーに乗り、その仲間となるなら、我々も邪悪な行ないに染まってしまう。神の子とされた聖なる民である我々が、正しい道を捨て、強奪の殺人ゲームに陥る。こんなことはあっていいはずがない。「悪を憎み、善に親しみなさい。」と使徒パウロが言った通り、我々は彼らの悪しき道から遠ざかり、正しい歩みを求めるべきである。

【ソロモン塾】箴言註解1:13~14

『あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」』(1:13~14)

 

「あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。」

邪悪な罪人たちは、どのような宝物をも得ようとする。それは自分たちを宝物で富ませるためである。ここで言われている「宝物」とは、何か冒険めいたことを想像すべきではない。ここでは、例えばどこかの島に行って海賊の残した宝物を探そうなどと言われているのではない。そうではなく、殺人により正しい者の持つ宝物を奪い取ろうと言われている。それは「分捕り物」と言われていることからも分かる。正しい者を殺せば、その者の持つ財物は、もはや所有者がいなくなる。それを自分たちの所有とするのが彼らの求めていることなのだ。このような罪人にとり、人の命などはどうでもいい。彼らは、ただ強奪することしか心にない。正にサタンの心と同じになっているわけである。

 

「おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」

サタンに憑かれた罪人は、正しい者を「くじ」で誘いかける。「くじを引き」とは、つまり平等で誘いを持ちかけている。「くじ」で何かを決めるのは、完全に平等なことだからである。彼らは、単に口先だけで「くじ」による平等を訴えるのではない。本当に平等とさせるつもりなのである。何故なら、そのほうが悪を行なう仲間として相応しいし、何かと都合が良いからだ。「一つの財布を持とう」と誘いかけるのも、要するに仲間になれば皆が平等なのだと訴えている。上下関係や奴隷的な立場に置かれるということはない。このようにすればオファーの成功率も高まる。彼らは何とか悪の仲間を増やしたい。だから、上下関係を作らない平等性を重視する。つまり、罪人たちは純粋に「仲間とならないか?」と持ちかけてくる。アーロン・ルッソも、このようにしてニック・ロックフェラーから誘いを受けた。しかし、これこそサタンの詐術である。彼らにとって、奴隷関係を作って仲間が増えないより、平等でも仲間が増えたほうが望ましいのである。誰でも平等なんだよと聞けば心が動かされることにもなろう。だが、このような悪しき誘いの場合は、それに乗ってはならない。

【ソロモン塾】箴言註解1:12

『よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。』(1:12)

 

「よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、」

忌まわしい罪人たちは、正しい罪のない者を「よみのように」「生きたままで」死なそうとする。「のみこみ」とは、つまり殺すことである。「よみ」は、地獄を意味する。この地獄には、死んでから「生きたまま」入る。何故なら、死んだら地獄で苦しむための人生が与えられるからである。それは「第二の死」であり、もはや生きていると言い難いのだが、しかし存在しているという意味で生きている。全く死んで意識もないような状態であれば、地獄で苦しむも何もないからである。だから、人は死んでも、事実上は地獄で生命が継続される。このため、「よみ」すなわち地獄は人を「生きたままで、のみこ」むわけである。キリストが語られた金持ちも、やはりこうであった。あの金持ちは死んでから地獄に行った。しかし、地獄で死んでいるものの、ある意味において生きている。だから、遥か彼方に見えたアブラハムに対し、この金持ちは憐れみを求めたのである。この金持ちも、死んだが生きたまま地獄に呑み込まれたことがよく分かる。要するに、罪人たちは正しい者たちを殺し、この地獄に行く者のようにしたい。「すぐにも別の世界に行ってしまえ」と願うのである。これは彼ら自身の悪しき願いである。しかし、それは彼らに憑りついているサタンの願いでもある。つまり、両者が共に同じことを願っているのだ。

 

「墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。」

「墓」とは文字通りの意味である。「墓に下る者」も文字通りで、死んで墓に入る者のことを意味している。サタンに憑りつかれた罪人どもは、罪のない正しい者を殺して墓に入れさせたい。そうすれば財物などを奪い取り、懐を肥やすことができるからだ。彼らはただ利益のために殺すことしか考えていない。何と邪悪で忌まわしいことだろうか。だから、ソロモンは彼らに決して組するなと命じている。

【ソロモン塾】箴言註解1:11

『もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、』(1:11)

 

「もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。」

「もしも」とある通り、先にも述べたが、ここで言われている内容は想定された事柄である。極悪の罪人だからといって、全ての人が正しい者を惑わすとは限らない。また正しい者であれば、誰でも悪魔的な罪人からオファーを受けるというのでもない。惑わす罪人は惑わすし、惑わされる人は惑わしを受ける。全ては神の御計画と御心による。

 

「われわれは人の血を流すために待ち伏せし、」

サタン的な罪人たちは、「人の血を流す」ことを望み願う。彼らには善悪の感覚が失われている。完全に倫理的な麻痺状態がある。サタンに憑りつかれているため、サタンのように善悪を弁えることがない。寧ろ、彼らにとっては悪こそ正しさと見做される。罪人は、人殺しをするため「待ち伏せし」ようとする。そうすれば、タイミングよく殺せるからだ。このほうが色々とやりやすくなるのである。しかし、このような待ち伏せは、神の御前で罪に定められる。神は、律法でこう言われた。「あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。」心の中で誰かの血を流そうと考えるだけでも、神はそれを罪とされる。だから、実際に待ち伏せするとすれば、尚のこと罪深くなる。このように正しい者を惑わす罪人たちは、何と邪悪なことだろうか。

 

「罪のない者」

邪悪な罪人は「罪のない者」を狙う。ここで言われているのは、社会的に潔白な遵法市民のことである。つまり、普通に生活している一般的にまともと見做されている人である。既に述べた通り、あらゆる人間は神の御前で罪深い。使徒が述べた通り、「義人はいない。一人もいない。」のである。だから、神の御前で罪のない者は誰もいない。しかし、ここでは一般的な意味合いにおける「罪のない者」が言われている。

 

「理由もなく、こっそりねらい、」

彼らは、潔白な者を殺すため、理由もないのに狙う。命を奪えば、財物を横取りできるからである。その対象である人が富んでいるほどに、狙う価値と意味も高まる。このようにして彼らは自分たちが富み栄えるようにする。「こっそりねら」うのは、色々と上手にやり遂げるためである。もし派手にやれば、騒ぎや警察沙汰となるため、リスクが高くなる。自分の身を守りつつ、ターゲットの血を流すわけだ。何と邪悪で忌まわしいことだろうか。このように「理由もなく」正しい者を狙う点に、彼らの極めて重い罪深さがある。

【ソロモン塾】箴言註解1:10

『わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。』(1:10)

 

「わが子よ。」

既に述べた通り、これは実際の血縁関係のことではなく、我々がソロモンから子のように教えられるという意味合いである。これについてはもう既に十分なだけ書いたから、今後は繰り返し説明しなくてもよいであろう。

 

「罪人たちが」

聖書は、全ての人間が神の御前で罪深いと教えている。聖書には「全人類が罪を犯した」とある。神の御前で罪人でない人間はいない。それゆえ、「義人はいない。一人もいない。」と使徒パウロは述べている。しかし、ここで言われている「罪人たち」とは、全人類を意味していない。文脈から明らかな通り、ここでは特別に邪悪な悪人のことが言われている。後ほど見るように、人殺しをするような極悪の罪人である。だから、一般の人々はここで言われている「罪人」に該当しない。もっとも、神の守りを失えば、誰でもそのような悪人に成り果てる可能性はあるのだが。

 

「あなたを惑わしても、」

上で述べたような「罪人たち」は、まだ悪に染まっていない我々を「惑わして」くることがある。それは罪人たちが仲間を求めているからだ。自分と同じ悪い仲間が増えれば、利益が多くなり、悪も行ないやすくなり、喜びも強まる。何と忌まわしいことだろうか。だが、そのように邪悪な仲間を増やすため惑わすのは、罪人の罪深い性質なのである。しかし、全ての極悪な罪人が必ず我々を惑わすというのではない。中には一人でいようとする、あるいは今の仲間だけで満足している、というような者たちもいるはずである。つまり、ここでは「罪人がもし我々を惑わしたならば」という仮定において言われている。

 

「彼らに従ってはならない。」

ソロモンは、邪悪な罪人が我々を惑わしても「従ってはならない」とここで命じる。何故なら、我々は主の聖なる民であって、清く正しく歩むべきだからである。詩篇にはこう書いてある。「主を愛する者たちよ。悪を憎め。」主を愛する者たちは、罪人たちに惑わされて悪へと陥ってはならないのである。彼らに組せず、正しさのうちに留まるならば、我々は神の恵みを失わないであろう。だが罪人たちに惑わされて堕落するなら、神の呪いを受けて惨めとなる。

【ソロモン塾】箴言註解1:9

『それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。』(1:9)

 

前節(1:8)で言われた「父の訓戒」と「母の教え」を保つのは、我々にとり「頭の麗しい花輪」また「首飾り」であるとソロモンは教える。父の訓戒と母の教えが、花輪と首飾りのどちらに対応しているのかと難しく考える必要はない。前者の2つは、どちらも後者の2つに対応している。確かに、我々が父母の言葉を保つならば、それは我々の飾りとなる。もちろん、これは実際的なことを言っているのではない。すなわち、もし父母の言われた通りにすれば、何か自然と飾りが体に生じるなどと言われているのではない。これは象徴的な表現である。つまり、父の訓戒と母の教えを大切に守る者は、神の御前で喜ばしい飾りを付けた者として見做されるのである。我々は、素晴らしい飾りで見栄えの良くなった人を見れば、好ましい印象を感じるであろう。父母の言葉を保持する者も、そのように神から好印象を持たれる。そのような者は、神に喜ばれ、御心に適っている。だから、祝福されるであろう。父母の言葉を守るその行ないにおいて祝福される。我々が父母の言葉を大切にするほど、神の御前で多くの飾りを付けることになる。飾りが多いほど、祝福もまた増し加えられる。一方で、父の訓戒も母の教えも守らない者は、神に喜ばれない。そのような者は御心に適わないであろう。すると祝福もされなくなる。我々は、何の飾りも付けていない惨めで貧相なぼろぼろの者を見て、あまり好ましい印象を持たないであろう。そのように神も、父と母の言葉を蔑ろにする者を良く思われない。2人の人物がいたとしよう。①:素晴らしい飾りを実際に多く纏っているが父母の訓戒は守っていない者。②:何の飾りもないが父母の言われた通りにしている者。①の者は、人間からは装飾を付けていると見えても、神の御目には何の装飾も付けていないと見做される。②の者は、実際的に装飾を付けていないが、神の御前で飾り立てられた者とされる。①の者は御心に適わないが、②の者は神に喜ばれる。