聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記16:8~9(2024/04/21)

【16:8】
『ユダの王アサの第二十六年に、バシャの子エラがティルツァで、イスラエルの王となった。治世は二年である。』
 エラは『ユダの王アサの第二十六年に』『イスラエルの王となった』のですが、この「26」という数字に聖書的な意味はありません。聖書で「26」には何の意味もないからです。これを分解して考えることもできません。「13」かける「2」に分解したとしても、そもそも聖書で「13」には何の意味もありませんから、無意味な分解でしかないのです。このエラは『ティルツァ』で王となりました。彼が父バシャが王になったのと同じ場所で王になったのは、父の時から続く流れがあったからでしょう。エラの『治世は二年』と非常に短い期間でしたが、これはエラが呪われていたからです。この治世における「2」という数字にも象徴性はないでしょう。「2」という数字自体は聖書で意味を持ちます。しかし、少なくともここでの「2」に特別な意味はないはずです。私たちは長く保たれるため、エラのようになるべきではありません。もし彼のように堕落するならば、神の呪いが注がれ、長く保たれなくなりかねないからです。

 

【16:9】
『彼がティルツァにいて、ティルツァの王の家のつかさアルツァの家で酒を飲んで酔っていたとき、』
 ある時にエラはティルツァで『酒を飲んで酔ってい』ました。酒を飲むこと自体は全く問題ありません。酒を飲みたければ望むままに飲めばいいのです。何故なら、酒は人間に対する神の御恵みとして造られたからです。『人の心を喜ばせるぶどう酒をも』神は造られたと詩篇で言われている通り、聖書は酒を否定していません。しかし、飲んでから酔うことは罪となります。何故なら、パウロも言った通り『そこには放蕩があるから』です。エラはこのように「酔う罪」に陥っていました。これはエラの罪深さを示しているのでしょう。つまり、罪深いその堕落した傾向が、泥酔という形で現れたということです。しかし、酒に酔う人が全てエラのような堕落した極悪人だというのでもありません。泥酔の罪を犯したノアを考えても分かるように、敬虔で偉大な人物さえ酔うことがあったからです。ノアを偉人であると思わない人がどこにいるでしょうか。しかし、このエラの場合は、ノアと異なり、酷く堕落していたからこそ泥酔したのです。

Ⅰ列王記16:7(2024/04/20)

【16:7】
『それは、彼が主の目の前にあらゆる悪を行ない、その手のわざによって主の怒りを引き起こし、ヤロブアムの家のようになり、また、彼がヤロブアムを打ち殺したからである。』
 バシャとバシャの家が神から大きな悲惨を受けるのは、神が非常に怒っておられたからです。その怒りの理由は2つのことがありました。まず一つ目は、バシャが『主の目の前にあらゆる悪を行な』ったからです。『あらゆる悪』とは、すなわち諸々の律法違反です。そのような悪により、バシャは『主の怒りを引き起こし』たのです。何故なら、忠実であるべきイスラエルの王が、神に従わず不敬虔で極悪な歩みをしたからです。このようにしてバシャとその家は『ヤロブアムの家のようになり』ました。これではヤロブアムの頃から何も変わっていないことになります。二つ目は、バシャが『ヤロブアムを打ち殺した』ことです。これはバシャがヤロブアムの血を根絶やしにしたということです。神はバシャによりヤロブアム家を打たれました。それは全く正しいことでした。ヤロブアム家は酷い堕落に陥っていましたから、報復を受けるに値しました。ですから、ヤロブアム家がバシャに根絶やしにされたのは自業自得でした。しかし、バシャがヤロブアムを殺したその行為そのものは、極めて大きな問題でした。それが問題であるというのは、ダビデがサウルを殺さなかったことからも分かります。それというのも、サウルに王としての権威が与えられていたように、ヤロブアム家の王にも王としての権威が与えられていたからです。このため、神がバシャに対して怒られるのは全く当然のことでした。

Ⅰ列王記16:3~7(2024/04/19)

【16:3~4】
『それで今、わたしはバシャとその家族とを除き去り、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにする。バシャに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」』
 バシャが実に罪深かったので、神はバシャとその家に大きな呪いを下すこととされました。罪と罰の度合いは正比例しています。何故なら、神は真実で正しい御方だからです。このため、非常に大きな罪を犯したバシャとその家には、非常に大きな呪いが下されねばなりませんでした。そのような呪いとして、神は『バシャとその家族とを除き去』られます。先に見た通り、バシャは罪深いヤロブアムの家を根絶やしにしました。それなのにバシャ自身もヤロブアム家のごとく罪深い歩みをしました。ですから、バシャ家もヤロブアム家のように根絶やしにされて当然なのです。このようにして神はバシャの罪悪に報復されるのです。この呪いにおいて死んだ『バシャに属する者』は、『犬』および『鳥』にその死体が食われます。つまり、墓にしっかり葬られることがありません。これは彼らが呪われていた証拠です。しかし、こうなったのは罪深かった彼らの自業自得ですから、文句を言うことはできないのです。

 

【16:5】
『バシャのその他の業績、彼の行なった事、およびその功績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。』
 『イスラエルの王たちの年代記の書にしるされている』バシャの記録は、バシャの『治世は二十四年』(Ⅰ列王記15:33)でしたから、それなりの量だったと考えられます。二年間しか王でなかったナダブの記録より多かったことは間違いないでしょう。ここではバシャに関して『その功績』と書かれています。これはバシャが記憶に値する重要な事業を多かれ少なかれ成し遂げたからなのでしょう。

 

【16:6】
『バシャは彼の先祖たちとともに眠り、ティルツァに葬られた。彼の子エラが代わって王となった。』
 こうしてバシャは死に、自分が王となった場所である『ティルツァに葬られ』ました。バシャは例外を除いて誰も墓に葬られなかったヤロブアム家の者と異なり、墓に葬られました。しかし、バシャは葬られても、『バシャに属する者』は話がまた別でした(Ⅰ列王記16:4)。

 

 バシャが死んでから、イスラエルの王は『彼の子エラ』となりました。このエラは北王国イスラエルにおける第四代目の王であり、サウルから数えれば第七代目の王となります。もう北王国イスラエルにヤロブアムの系譜は存在しなくなりました。もしヤロブアムが堕落していなければ、イスラエルではヤロブアムの系譜がずっと続いていたことでしょう。

 

【16:7】
『主のことばはまた、ハナニの子、預言者エフーを通して、バシャとその家とに向けられた。』
 バシャとその家に対しては、神がまたエフーにより宣告の御言葉を告げられました。『また』と書かれているのは、つまり1回限りではないということです。これは神がバシャとその家に御怒りの目をずっと向けておられたからです。何故なら、神はバシャとその家の堕落を本当に憤っておられたからです。

Ⅰ列王記16:1~2(2024/04/18)

【16:1】
『そのとき、ハナニの子エフーにバシャに対する次のような主のことばがあった。』
 バシャ時代のイスラエルには、預言者が存在していました。その預言者の一人である『エフー』に対し、バシャへの宣告が神から与えられました。神はバシャに直に語ることをされませんでした。そうではなく、神は預言者の口を通して語ることにされたのです。それが神のやり方だからです。この時にエフーが受けた『主のことば』は、実際的な音声による言葉だったでしょう。つまり、神が直接的にエフーに語りかけたのです。しかし、その音声はエフーにだけ聞こえるものだったはずです。

 

【16:2】
『「わたしはあなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、』
 まだ王になる前のバシャは、取るに足らない一般の者に過ぎませんでした。つまり、その時のバシャは『ちり』でした。『ちり』は無価値で注目されませんが、バシャもそのような者だったのです。しかし、神はそのようなバシャを『引き上げ』、イスラエルの王にまで高められました。このように高められるのは大きなことです。ダビデやサウルも、そのようにして塵から王にまで引き上げられました。このように神はしばしば塵を高い地位へと引き上げられる御方です。どうして塵が選ばれるかと言えば、それはその引き上げにおいて、神の御業が浮き彫りにされるためです。何故なら、神の働きかけでなければ、どうして塵が王になったりするでしょうか。神はそのようにして御自分の栄光を現わされるのです。

 

『あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。』
 バシャはこのように引き上げられ、神から大きな御恵みを受けたのに、その神に従おうとしませんでした。バシャは神から王に引き上げられたのですから、その神に対し忠実な者となるべきでした。ところが、バシャはそうせず、忌まわしい『ヤロブアムの道に歩』んだのです。それどころか、バシャは自分が罪深い者となるだけでなく、『民イスラエルに罪を犯させ』ることまでしました。自分が堕落するだけでも罪深いことなのに、バシャは他の多くの人々をも堕落させたのです。ですから、バシャは二重に罪深かったことになります。このような二重の罪により、バシャは神の『怒りを引き起こし』ました。神の民は王であれ民衆であれ神に仕えるべきなのに、バシャは自分だけでなく民衆をも神に逆らわせたからです。これを何かに例えるならば、5000億円を贈られた者が、贈った者に害となるようその贈られた5000億円を使うようなものでしょう。こんな酷いことがあるでしょうか。あり得ないことです。ところが、バシャはそのようなことを神に対してしたわけです。このようなバシャの忘恩に対し、神が怒られるのは当然のことでした。

Ⅰ列王記15:31~34(2024/04/17)

【15:31】
『ナダブのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。』
 ナダブに関する聖書で書かれていない事柄も、やはり『イスラエルの王たちの年代記の書にしるされてい』ました。先の箇所でアサについて書かれていた『功績』(Ⅰ列王記15章23節)という言葉は、ナダブについて書かれていません。ナダブの場合は『業績』と書かれているだけです。これはナダブがアサと異なり、記憶すべき重要な事業をしなかったからなのでしょう。またナダブについては、アサの箇所で書かれていた『建てた町々』という言葉も、書かれていません。これもやはりアサが特にこれといった建設事業をしなかったからなのでしょう。先に見た通り、アサは『二年間、イスラエルの王であった』(Ⅰ列王記15:25)だけですから、『年代記の書にしるされている』記録もそこまで多くなかったと考えられます。

 

【15:32】
『アサとイスラエルの王バシャとの間には、彼らの生きている間、争いがあった。』
 アサとバシャは、それまでのユダ王とイスラエル王がそうだったのと同様、ずっと対立を続けていました。ソロモンに対する神の呪いが現実化した状態であり続けるため、ユダ王とイスラエル王はどうしても対立し続けていなければなりませんでした。もしそのような呪われた状態が続かなければ、ソロモンは罪を犯していなかったことになるでしょう。その場合、そもそもユダヤは南北2つの国に分裂したりしなかったことでしょう。

 

【15:33~34】
『ユダの王アサの第三年に、アヒヤの子バシャがティルツァで全イスラエルの王となった。治世は二十四年。彼は主の目の前に悪を行ない、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた彼の罪の道に歩んだ。』
 既に見た通り、バシャは『ユダの王アサの第三年に』イスラエル王となりました。その『治世は二十四年』ですが、ここでの「24」という数字に象徴性は恐らく無いでしょう。もしあるとすれば、選びを示す「12」かける「2」でしょう。こうである場合、ここでの「24年」は、バシャが選ばれていたことを強調しているのです。しかし、このようにここでの「24」を解するのはあまり自然だと感じられません。このバシャが王となった『ティルツァ』は、イスラエル王国の中央をやや南東に逸れた場所にあります。

 

 34節目で書かれている通り、このバシャもやはり堕落しており、罪深い歩みをしました。バシャもヤロブアムから続く堕落の流れに呑み込まれていました。34節目の箇所で言われている内容は、先に見たナダブの箇所と(Ⅰ列王記15:26)、内容的に何も変わりません。ただ34節目の箇所で『ヤロブアム』と書かれている部分は、ナダブの箇所では『彼の父』また『父』と書かれています。これはナダブがヤロブアムを父として持ち、バシャはヤロブアムと親族関係を持たなかったからです。この通り、バシャは自分が行なった悪により当然の刑罰を受けました。私たちは決してこのバシャのようになるべきではありません。寧ろ、私たちはバシャの逆とならねばなりません。すなわち、主の目の前に善を行ない、ヤロブアムの道に歩まず、罪を避けるようにすべきです。

Ⅰ列王記15:29~30(2024/04/16)

【15:29~30】
『彼は、王となったとき、ヤロブアムの全家を打ち、ヤロブアムに属する息のある者をひとりも残さず、根絶やしにした。主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりであった。これはヤロブアムが犯した罪のため、またイスラエルに犯させた罪のためであり、またイスラエルの神、主の怒りを引き起こしたその怒りによるのであった。』
 イスラエルの王となったバシャは、王となってから、『ヤロブアムの全家を打ち』ました。つまり、以前の王家に属していた全ての人間を粛正しました。謀反や革命などにより支配者が入れ替わる場合、それまで支配者だった者の一族がことごとく粛清されるのは、決して珍しくありません。ロシア革命の際も、それまで皇帝の一族だったロマノフ家が、ボリシェヴィキ軍により粛清されました。このような出来事はこれまでごく普通に行なわれてきました。かつての支配者一族を粛正するのは、復讐の危険を消し去るためです。何故なら、支配権を奪われた者たちの復讐心は非常に強く、失われた支配権を取り戻そうと企むこともあるでしょうから、新しい支配者にとって致命的な問題となりかねないからです。また、そのように以前の支配者一家を粛正すれば、しっかり区切りが付くことにもなります。そのような区切りが付けば、円滑さと平安が生じることにもなるのです。こういうわけで王となったバシャは『ヤロブアムに属する息のある者をひとりも残さず、根絶やしにした』のです。こうしてヤロブアム家の人間は全くいなくなりました。これはかつて『主がそのしもべ、シロ人アヒヤを通して言われたことばのとおりで』した。神は前からヤロブアム家がこうなるように定めておられました。ですから、実際にそうなったわけです。ヤロブアム家が粛清された際は、誰一人として墓に葬られず、その死体は動物に喰われてしまいました。既に見た通り、ヤロブアム家の人間で墓に葬られるのは、ただあの子だけだったからです。こうして正に神が言われた通りとなったのです。

 

 ヤロブアム家がこのような悲惨を受けることになったのは、3つの理由からでした。まず一つ目は『ヤロブアムが犯した罪のため』です。ヤロブアムは偶像崇拝という非常に大きな罪を犯し、呪われるに値する者となりました。ですから、その呪いがこの時に神から注がれたのです。二つ目はこのヤロブアムが『イスラエルに犯させた罪のため』です。ヤロブアムは自分が罪を犯すだけでなく、自分の治めるイスラエルの全体にもその罪を犯させました。そのようなことをしたヤロブアムの家は大きな災いを受けて当然だったのです。三つ目は『イスラエルの神、主の怒りを引き起こしたその怒り』でした。ヤロブアムとイスラエルが犯した罪は極めて邪悪であり、それは神を大いに怒らせました。ですから、怒られた神は復讐としてヤロブアム家に大きな災いを注がれたのです。この通り、ヤロブアムの家が悲惨になったのは、しっかりとした理由がありました。ヤロブアムとイスラエルが忌まわしい罪を犯したからこそ、このようになったのです。自業自得とは正にこのことです。

 

 このように偶像崇拝の罪を犯したり、自分以外の存在にも偶像崇拝の罪を犯させるならば、その罪により神が怒られますから、容赦のない神罰が注がれることになります。日本に落とされた原爆もその通りでした。今に至るまで偶像崇拝の満ちている日本は、偶像崇拝に陥っていたイスラエル王国と、偶像崇拝の罪を犯している点で何も変わりません。ですから、ヤロブアム家が偶像崇拝のため大きな災いを受けたように、日本も偶像崇拝のため原爆において大きな災いを受けることとなったのです。私たちはこのことを弁え、決してヤロブアム家のようになるのを避けるべきです。そうならないため、この箇所ではヤロブアム家の受けた悲惨が私たちに対する警告として示されています。

Ⅰ列王記15:27~28(2024/04/15)

【15:27~28】
『バシャはペリシテ人のギベトンで彼を打った。ナダブと全イスラエルはギベトンを攻め囲んでいた。こうしてバシャはユダの王アサの第三年に、彼を殺し、彼に代わって王となった。』
 ナダブ王は、当然ながら謀反者であるバシャと戦い、彼を葬ろうとしました。このような謀反者が出た場合、王が殺そうとするのは、ごく普通のことです。しかも、王がその謀反者を殺したとしても、それは王権を合法的に行使しただけですから、通常であれば罪となりません。それは殺人行為というより処刑と言ったほうが正しいからです。しかし、この時に謀反を企てたバシャは、ナダブに対する呪いの意味がありました。このバシャは言わばナダブに対する神の刑罰道具でした。ですから、ナダブがこのバシャを殺すことは決してできませんでした。このバシャとナダブは、『ペリシテ人のギベトン』で戦っていました。この『ギベトン』は地中海から幾らか内陸部に入った地域です。そこは以前、ダンの相続地でした。その戦いでは『ナダブと全イスラエル』が『ギベトンを攻め囲んでいた』のですから、ナダブ軍のほうがバシャ軍より優勢だったのかもしれません。しかし、ナダブはそこでバシャにより打ち取られました。これはナダブが罰せられるべき罪深い歩みをしていたからです。結局のところ、罪深いほうが神から罰せられて敗北に至ります。日本も第二次世界大戦の際、最初はかなり良い調子であり、連合国軍を苦境に追い込んでいました。しかし、日本は罪深かったので、神から罰せられて結局は悲惨な敗北を味わうこととなったのです。こういうわけですから、もしナダブが罪深い歩みをしていなければ、バシャから打ち取られることもなかったでしょう。その場合、バシャは堕落に陥っていないので、神の呪いを受けて悲惨になる要因が無いからです。というより、その場合であれば、そもそもバシャがナダブに対して謀反を起こすことも無かったでしょう。

 

 こうしてバシャは謀反の対象であるナダブを打ち殺し、アサがユダ王となってから『第三年に』、ナダブ『に代わって王とな』りました。ナダブがイスラエル王であるのは、もう神の御心ではなくなったのです。これからはバシャがイスラエル王となることこそ神の御心でした。だからこそ、このようにしてナダブと入れ替わるようにしてバシャが次の王となったのです。これは全てが神の御心により決まり、導かれ、変動するのだからです。