聖書の学び

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Ⅰ列王記11:30~32(2024/01/19)

【11:30~31】
『アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。』
 アヒヤがヤロブアムに会ったのは、神の預言を告げるという目的以外ではありませんでした。神はこのアヒヤを通してヤロブアムに語ろうとしておられました。ですから、神はアヒヤをヤロブアムに会わせたのです。もしソロモンが罪を犯していなければ、アヒヤがヤロブアムに会う必要もなかったでしょう。預言者も暇ではありません。ソロモンが酷く堕落したため、神はイスラエルを『十部族』とそれ以外の部族にこれから引き裂かれます。このうち十部族のほうがヤロブアムに与えられます。ソロモンの子孫には少ししか残されません。これを告げるため、アヒヤはヤロブアムに会ったのです。この通り、この時代は、神が預言者を通して語っておられました。アヒヤは預言をする際、『着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き』、10の部分をヤロブアムに取らせます。外套が12の部分に引き裂かれたのは、これからイスラエルが引き裂かれることを示します。10の部分をヤロブアムに取らせたのは、ヤロブアムが『十部族』を支配することになるからです。外套が新しかったのは、これからイスラエルが新しい2つの国となるからです。もっとも、新しいと言っても、それは良いことの結果として起きた新しさでなく、悪いことの結果として起きた新しさなのですが。この外套の詳細がどうだったかということは、別にどうでもいいことです。私たちはただアヒヤがその外套を預言のため引き裂いたと知っていればそれだけで十分です。またアヒヤがどのような感じで引き裂いたかというのも、分からなくて問題ありません。アヒヤは激しく引き裂いたかもしれませんし、穏やかに引き裂いた可能性もあります。しかし、いずれにせよ、私たちはただアヒヤが外套を引き裂いたとだけ分かれば何も問題ありません。

 

 この通り、神は象徴性を軽んじられない御方です。預言する内容を物理的に対応させて示す。ここに象徴性があります。私たちも象徴性を軽んじるべきではないでしょう。聖餐式を考えてみるとどうでしょうか。この聖礼典には象徴性が強くあります。パンでキリストの御身体に、葡萄酒でキリストの聖なる血に、それぞれ与かるのだからです。

 

【11:32】
『しかし、彼には一つの部族だけが残る。それは、わたしのしもべダビデと、私がイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じてのことである。』
 ソロモンに『一つの部族だけが残る』というのは、ソロモンに対する報いでした。何故なら、ソロモンの子孫は本来であれば12の部族を支配し続けていただろうからです。それなのに一つしか支配できなくなります。もし全ての部族が子孫から取り上げられたならば、ソロモンへの極めて悲惨な懲らしめとなっていたでしょう。しかし、神はソロモンが堕落したにもかかわらず、その子孫に一つの部族を保って下さいます。それはここで書かれている通り、ダビデエルサレムに免じてのことでした。神は御自分の選ばれたエルサレムダビデとその子孫が支配することを望まれました。ですから、ユダ部族までソロモンの子孫から取り上げられれば、エルサレムダビデが選ばれた意味はあまり無くなってしまうのです。神が『一つの部族だけ』でもソロモンに残されるのは、全くソロモンのゆえではありませんでした。