聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記8:33(2023/10/27)

【8:33】

『彼らがあなたのもとに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で、あなたに祈り願ったなら、』
 ヤコブの子らが罪を犯して神に反逆するならば、『敵に打ち負かされ』、呪いとしてその敵に捕らわれてしまいます。そして敵の国へと強制的に連れて行かれます。つまり捕囚されてしまいます。律法では、イスラエル人が罪を犯すならばこうなると定められています。神は御自分の民が反逆に陥るのを喜ばれません。ですから、イスラエルが罪を犯したならば、懲らしめの裁きとして悲惨な状況に陥らされるのです。実際にイスラエルはこのようになりました。紀元前585年にイスラエル人はバビロンに『打ち負かされ』、バビロンの国へと連れて行かれたのです。そして、イスラエル人は長らくその地で過ごさねばならなくなりました。これはイスラエル人が神への反逆をずっと止めようとしなかったからでした。

 

 しかし、イスラエル人は捕囚の苦しみを通して、罪のことで反省するようになります。何故なら、神に逆らったからこそ悲惨な裁きを受けているということが、彼らにもよく分かるからです。もし神に罪を犯していなければ、敵の手に引き渡されたりしなかったことは明らかなのです。そのようにイスラエルが反省するならば、神のもとに『立ち返り』ます。つまり、それまでは悪い流れの中に歩んでいたのですが、もう悔い改めてすっかり悪を捨て去り、正しい流れの中に歩むこととなります。そして御民は再び『御名をほめたたえ』るようになります。何故なら、もうイスラエルは神に立ち返ったからです。それまでは、まだ罪により神から遠ざかっていたので、神を褒め称えることはしませんでした。ここでソロモンは、イスラエルが『この宮で、あなたに祈り願ったなら』と言っています。ここでソロモンが言っているのは、イスラエル人が裁きにより祖国から追放されている時のことです。それなのにイスラエル人が祖国にある宮で祈り願うというのは、どういうことなのでしょうか。これはイスラエル人の幾らかの者たちが、捕囚の地から宮まで行って祈り願うということです。イスラエル人の全体は宮から遠く離れた場所にいても、少しの者たちが宮に行くということであれば可能なはずです。イスラエルが罰されている中にあって、幾人かでも宮まで祈りに行くというのは、イスラエルに多かれ少なかれ悔い改めの心があることを反映しています。そのように宮まで行ったイスラエル人が『祈り願』うのは、当然ながら悔い改めに関することです。何故なら、その者たちは御前で悔い改めるため宮まで向かうのだからです。