聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記8:32~33(2023/10/26)

【8:32】
『あなたのしもべたちにさばきを行なって、悪者にはその生き方への報いとして、その頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。』
 神は『さばきを行な』われる御方です。何故なら、神とは義そのものであられるからです。「義」は善で悪であれ裁かずにいません。それが義なのだからです。もし神が裁きを行なわれないのであれば、神は義なる御方でないことになってしまいます。このような義なる神は、ここで言われている通り、悪者にも正しい者にも報いられます。神は先に見た『のろいの誓い』の内容が真実であるかどうか完全に知っておられます。ですから、もし呪いの誓いをした者が本当に罪を犯していたならば、神は『その生き方への報いとして、その頭上に悪を下』されます。しかし、単に偽って誓わせられただけであれば、誓いを強要させた者が悪いことになります。この場合、偽りの誓いを立てさせられた者は無罪とされ、誓いを強要させた者が罰せられることとなります。神は今もこれからも義なる御方であられます。ですから、神は今でも悪者と正しい者に対して報いられます。そのようにして神は裁き主としての御栄光を現わされるのです。ところで、ここで『正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。』と言われているのを、カトリックは行為義認の根拠とするかもしれません。しかし、この部分は決して行為義認を教えていません。ここでは単に、神が潔白な者には義の報いを与えて下さると言われているだけに過ぎません。この箇所を行為義認の根拠とするならば、疑いもなく滅びるでしょう。何故なら、そのような行為義認の徒は、キリストの贖いを否定しているのだからです。

 

【8:33】
『また、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、』
 先に見た箇所で言われていたのは、イスラエル人が同胞に対して犯す罪のことでした。しかし、ここではイスラエル人が神に対して犯す罪について言われています。ヤコブの子らは神の民であるものの罪深いので、神に対しても罪を犯してしまうのです。それは旧約聖書を見れば明らかです。ここで言われている対神罪の内容が何であるかは、この箇所では問題となりません。ここでは対神罪が一般的に取り扱われているからです。御民イスラエルが神に罪を犯すならば、呪いとして『敵に打ち負かされ』てしまいます。この場合、その敵が罪深いかどうかはほとんど関係ありません。何故なら、その敵が罪深ったとしても、神は罪を犯したイスラエルが、そのような罪深い敵に打ち負かされるよう働きかけられるからです。神としても御自分に反逆した御民を祝福するわけにはいかないのです。もし祝福されるとすれば、罪が祝福の対象となってしまうでしょう。私たち人間にしても自分に反抗する者にはあまり良くしてやりたいと思えないでしょう。