聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記8:38~39(2023/11/02)

【8:38】
『だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、』
 前節で書かれていたような悲惨がイスラエルに襲いかかるならば、イスラエルは大いに嘆くこととなります。すると、イスラエルには悩みが起こります。それは罪の悩みです。「ああ、このような悲惨が降りかかるのは罪を犯したからなのかもしれない。」などと思う悩みです。それがここでは『心の悩み』と言われています。このような悩みを持ったイスラエルは、『この宮に向かって両手を天に差し伸べて祈る』ことにもなりましょう。『この宮に向かって』祈るのは、そこに神がおられるからです。神に祈る内容は、悔い改めと赦しのことです。『両手を差し伸べて』祈るのは、イスラエル人が強く神を求めていることの反映です。今でも惨めな人は憐れみを求めてこうする場合がありましょうけども、イスラエルが『両手を差し伸べ』るのは、これとよく似ています。私たちが今でもこうして神に両手を挙げたとしても、何も問題はありません。ただ両手を差し伸べるのが偽善的・演技的になってはいけません。神は単なる見せかけを喜ばれないからです。神への強い思いが自然と両手を上に動かすようであれば、それは好ましいことです。自然とそのようになる祈りは本質的に力強いでしょうから、そのような祈りは神に聞かれることでしょう。もっとも、それはその祈りが御心に適っていればの話です。もしその祈りが御心でなければ、どれだけ両手を天に差し伸べても、祈りは決して聞かれないでしょう。

 

【8:38~39】
『どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。』
 神は、このような悔い改めたイスラエルの祈りを必ず聞いて下さいます。何故なら、その時のイスラエルは悔い改めたからです。悔い改めたというのは、つまり神の御心に適わない罪を捨てたということですから、そのようにしたイスラエルであれば必ず御心に適った祈りを捧げるはずなのです。その祈りが御心に適っていれば聞かれるでしょう。『聞いて』とは、イスラエルの捧げる祈りの全体を聞いて下さいということです。『赦し』とは、祈りの中で告白された罪を赦して下さいということです。『かなえてください』とは、祈りの中で求められた願いの事柄を実現させて下さいということです。