聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記8:59~60(2023/11/19)

【8:59】
『私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。』
 ソロモンは、自分の言った言葉が、『神、主のみそば近くにあ』ることを求めています。これはソロモンの言葉が、主のおられる宮で実現するようにという願いです。すなわち、ソロモンは宮で捧げられる民の祈りがいつも主に聞き入れられることを求めています。ソロモンが『昼も夜も』そのことを願ったのは、イスラエル人が『昼も夜も』宮で祈りを捧げるからです。ソロモンは、イスラエルの祈りが重要な事柄でない『日常のことにおいても』聞き入れられるように願っています。それは『しもべ』であるソロモンであれ、『御民イスラエル』であれ、そうです。何故なら、イスラエル人は重要な事柄だけでなく日常においても、神との関わりのうちにあるからです。イスラエル人はその日常においても神の支配下に置かれているからです。この通り、神は聖徒たちの日常的な事柄についても祈りを聞き入れて下さいますから、私たちは『日常のことにおいても』祈りを捧げるべきです。使徒ヨハネも日常のことで祈りを捧げていました。聖徒たちの祈りが重要な事柄に限られるべきだということはありません。聖書は重要な事柄だけを祈るようになどと教えていません。

 

【8:60】
『地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。』
 前節で言われていた通り、イスラエルの祈りが『日常のことにおいても』神から聞き入れられるのは、『地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるため』でした。重要な事柄だけでなく日常的な事柄でも全て祈りを聞いて下さるような神が、他にいるでしょうか。真の神以外にそのような神は決してありません。ですから、神がそのような御方であるならば、諸国民はイスラエルの神こそ真の神であると知るようになるのです。というのも異邦人たちの神々は、真の神のように、日常的な事柄についても全てを聞き入れてくれるということはないからです。このように神は御自分のために御民が捧げる祈りを『日常のことにおいても』聞いて下さいます。つまり、民の祈りを聞き入れるのは神にとって益となるのです。しかし、諸国民がこのようにして『主こそ神であ』ることを知ったとしても、だからといってその民が救いを受けられたということはありませんでした。旧約時代において救われたのはイスラエルだけだったからです。けれども、ユダヤ以外の諸国民も、やがては救われることが決められていました。ですから、このように異邦人も『主こそ神であ』るのを知ることは、事前教育として大きな意味があったと思われます。