【8:61】
『あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。」』
ソロモンは、民が『神、主と心を全く一つに』するように求めています。『主と心を全く一つに』するとは、どういう意味でしょうか。これは民が、主の御心を自分の心・思いにするということです。その御心は律法の中で明瞭に示されています。神の側がイスラエルの心に一致する必要性はありません。何故なら、神はイスラエルの主であって、イスラエルのほうが神に合わせるべきだからです。しかし、神も民の祈りを聞き入れるという形で、イスラエルの心に御自分を合わせて下さいます。それはイスラエルが主の御心に適った事柄を祈り求めるからです。今の時代に生きる聖徒たちも『主と心を全く一つにし』なければなりません。例えば、「この戒めは私の感覚に一致しないから受け入れ難い。」などと言うべきではありません。寧ろ、聖書で示されている御心の事柄を聖徒たちは自分の思想・意思とすべきなのです。ですから、詩篇の記者はこう言ったわけです。『どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。』(詩篇119:97)
ここで『今日のように』とある通り、ソロモン時代のイスラエル人は『主の命令を守』っていました。これはダビデ時代が霊的に良い状態だったからでしょう。敬虔なダビデに治められていた頃、イスラエル人たちはダビデのように主の命令を守っていたはずです。それというのもダビデは民が命令に従わないことを許さなかったはずだからです。そのような良い状態が、まだソロモン時代のイスラエル人においても続いていたのです。ですから、ソロモン時代のイスラエル人はダビデ時代と同じように『主の命令を守』っていたわけです。イスラエル人が命令を守っていた『今日のように』、イスラエル人はこれからも『主の命令を守らなければならない』とソロモンがここで命じています。これはイスラエルが神の民であって、神の民はいつでも『主の命令を守らなければならない』からです。神の民が命令を守らなくてもよい時など一瞬たりともないのです。