聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記13:24~25(2024/02/24)

【13:24】
『死体は道に投げ出され、ろばはそのそばに立っていた。獅子も死体のそばに立っていた。』
 裁き殺された神の人の『死体は道に投げ出され』ていました。これは神への反逆がどういう悲惨を齎すか、まざまざと示すためだったはずです。この死体を見るならば、人々は神に反逆するならば死ぬということが分かるのです。つまり、死体が放置されたのは見せしめのためでした。神の人を殺した獅子は『死体のそばに立っていた』のですが、つまり死体を食べていませんでした。どうして獅子は死体を食べなかったのでしょうか。これは死体が『神の人』だったからでしょう。つまり、神の人はただ背きの罪が死により罰されただけであり、神の人自体は神から見放されていなかったということです。もし彼が見放されていたとすれば、神は獅子にその死体を食べさせておられたかもしれません。この獅子は『立っていた』のであり、座っていたのではありません。死体と獅子の近くには神の人が乗っていた『ろば』もいました。この驢馬はそこから逃げることをせず、また獅子に裂き殺されることもされませんでした(Ⅰ列王記13:28)。驢馬が獅子に裂き殺されなかったのは、神の御怒りがただ神の人だけに向けられていたことを示しているのでしょう。この驢馬も座っておらず『立ってい』ました。

 

【13:25】
『そこを、人々が通りがかり、道に投げ出されている死体と、その死体のそばに立っている獅子を見た。』
 神の人は見せしめにされていましたから、人々から死体が隠されることはありませんでした。人々が見なければ見せしめの効果は出なくなるからです。こうして人々は死体となった神の人を見ました。人々は『その死体のそばに立っている獅子を』も見ました。ここでは書かれていませんが、人々はそこにいた『ろば』も見たはずです。この時に死体を見た人々がどれぐらいいたかは分かりません。恐らく、かなりの人が見たと思われます。またこの死体についてはユダおよびイスラエルの両国で大きなニュースとなった可能性が非常に高いでしょう。何故なら、これは非常に重大な出来事だからです。これが重大な出来事だったので、聖書もそのことを詳しく記録しているわけです。

 

『彼らはあの年寄りの預言者の住んでいる町に行って、このことを話した。』
 死体となった神の人を見た人々は、そのことを預言者に報告しました。人々がこういった事柄を預言者に報告する法的な義務は恐らく無かったはずです。律法も、何かあれば預言者に報告せねばならないなどと命じてはいません。しかし、この出来事は霊的に重要な意味を持つことでした。ですから、たとえ法的な義務はなくても、預言者に報告しておくのが望ましいことでした。何故なら、預言者とは霊の人であって神に用いられる強力な器だからです。このような人こそ霊的に重要な事柄をよく知っておくべきであることは言うまでもありません。