聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記15:23~24(2024/04/12)

【15:23】
『アサのその他のすべての業績、すべての功績、彼の行なったすべての事、彼が建てた町々、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。』
 アサに関する記録で、聖書に書かれていない事柄は、あの『年代記の書』に記されていました。ここで書かれている『業績』とは、既に他の王たちについても書かれていた言葉です。しかし、『功績』はこれまでの王たちの場合、書かれていませんでした。この『功績』は明らかに『業績』と区別されています。この『功績』とは長く記憶されるべき優れた事業また成果のことでしょう。それは『業績』と呼ぶには物足りないものだったはずです。しかし、それらの『功績』がどのぐらいあったかまでは分かりません。かなりあったのかもしれませんし、少しだけだった可能性もあります。『彼が建てた町々』とは、先に見たゲバやミツパといったアサが建設した町々です。この2つの町々はアサによる建設であることが確定しています。この2つ以外にどれぐらいアサが建設したのかまでは分かりません。これもやはり多かったもしれませんし、少しだけだった可能性もあります。

 

『ただ、彼は年をとったとき、足の病気にかかった。』
 アサがかかった『足の病気』については、どのような病気だったかここで示されていません。また、その病気によりアサが死んだのかどうかも分かりません。しかし、ここでこのように書かれているほどですから、大きい病気だった可能性は高いでしょう。もし取るに足らない小さな病気だったとすれば、聖書がここでそのことを取り上げていたかどうか疑問に感じられるからです。アサがかかったこの病気は、神の呪いによったはずです。先に見た通り、アサは『高き所』(Ⅰ列王記15章14節)を取り除きませんでした。そこは偶像崇拝の罪に関して足が置かれる場所です。そのような足を置く罪深い場所が取り残されていたので、神はアサの足を通して報いられた可能性が高いのです。神はそのようにして御自分の不満を示されたのでしょう。ですから、もしアサが高き所を取り除いていれば、アサの足も病気にかからなかったはずです。この通り、敬虔さは徹底していなければ悲惨を齎します。私たちはこのアサを教訓とせねばなりません。ただ敬虔なだけではいけないのです。その敬虔さは完全であることが求められています。キリストが『天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。』と言われた通りです。敬虔に欠けがあるのは、このアサを考えても分かる通り、ダムにヒビ割れがあるのと似て危険なことです。

 

【15:24】
『アサは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともに父ダビデの町に葬られた。』
 こうしてアサは『先祖たち』と同じように死に、ベツレヘムの町に葬られました。アサがどのようにして死んだかはここで何も示されていません。聖書はここでアサの死をただ簡潔に書いているだけです。