聖書の学び

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Ⅰ列王記18:18~19(2024/05/22)

【18:18】
『あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。』
 ここでエリヤが言っている通り、イスラエルを煩わしているのはエリヤというより寧ろアハブとアハブ『の父の家こそそうで』した。アハブの『父』とはオムリ王のことです。このオムリ王の『家』とは、オムリが支配していたイスラエル国家またイスラエルの人々です。つまり、イスラエルは自分自身で自分を煩わしていたのです。ここでエリヤが『現に』と言っている通り、イスラエル人たちは『主の命令を捨て』ていました。このような不服従イスラエルに対する神からの呪いを引き起こしていたのです。何故なら、神は背きに対して報いられる御方だからです。ですから、イスラエル人たちはその罪により自らを煩わしていました。一方、エリヤは『主の命令を捨て』ていませんでした。ですから、エリヤはイスラエルに煩いを齎す原因となっていません。またアハブは『バアルのあとについていま』した。国家の代表者として神の御前に立つ王が偶像であるバアルを拝むというのは、致命的な状態でした。王が偶像崇拝をするならば国民にも偶像崇拝は広がるでしょうから、国全体が呪われるべき状態となります。このようにしてイスラエルには飢饉という呪いが齎されたのです。エリヤは『バアルのあとについてい』ませんでした。ですから、エリヤによりイスラエルが飢饉の災いを受けたのではありませんでした。

 

【18:19】
『さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」』
 この時のイスラエルは実に忌まわしい状態でした。何故なら、神の民である者たちが神を捨てて偶像に帰依していたからです。こんなにも忌まわしい事態が他にあるでしょうか。このような状況にあって、エリヤはイスラエル偶像崇拝に戦いを挑もうとします。それは肉的な戦いでなく霊的な戦いでした。エリヤが戦おうとしたのは、エリヤの仕える神とイスラエルの拝む偶像のどちらが真の神であるか明らかにする目的があったからです。エリヤは『四百五十人のバアルの預言者』を集めるようアハブに求めます。当時のイスラエルにはこれほど多くバアルの預言者がいました。この「450」という数字に象徴性はないでしょう。この預言者たちは『イゼベルの食卓につ』いていましたが、これはつまりイゼベルに養われていたことです。バアルの預言者たちは身も心もイゼベルに支配されていたはずです。またエリヤは『四百人のアシェラの預言者』も集めるようアハブに指示します。アシェラの預言者もこれほど多く存在していました。この「400」という数字にも象徴性はないでしょう。このようにイスラエルには合計で950人も偶像の預言者がいました。預言者だけでこれほどいたとすれば、この預言者たちに耳を傾ける一般の偶像崇拝者はどれだけ多くいたことでしょうか。イスラエルの全体がバアルおよびアシェラ崇拝に満ちていたことは間違いありません。この「950」という合計数にも象徴性はないはずです。このように戦いは1人対950人となりました。人間的に考えれば、これはエリヤが不利となる戦いであると感じられたでしょう。しかし、これは神の戦いでした。エリヤには至高の神が共におられました。ですから、エリヤは950人を相手にしても臆することがありませんでした。エリヤがこの戦いの場所として選んだのは『カルメル山』でした。この山はイスラエルの北西部にあり、アシェル族の相続地に位置していました。この山を北に行けばフェニキア人の国となります。エリヤが山を戦いの場所として選んだのは、山は神のおられる天と近似的な場所だからです。このため、主もよく山で父なる神に祈られたのです。