聖書の学び

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Ⅰ列王記15:13(2024/04/05)

【15:13】
『彼はまた、彼の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼いた。』
 アサの母マアカは、『アシェラのために憎むべき像を造』りました。このような像とその制作は実に忌まわしいことでした。それは十戒の第二番目に違反する極悪な罪なのです。しかし、アサはこのような母から偶像崇拝の影響を受けませんでした。神がアサを憐れみ、御恵みにより母から悪影響を受けないよう守っておられたからです。もし神の憐れみと御恵みが無ければ、アサは母から偶像崇拝の影響を受けてしまったことでしょう。

 

 この母マアカは、『王母』という光栄ある地位にありました。王の母が『王母』という称号を持つのは、どこの国でも珍しいことではありません。王はこのような称号を母に与えることで、産みの親に対する敬意を示すのです。そのようにするのはまた王の健全な人間らしさが現われることにも繋がります。そういった人間らしさが、民衆に対しては重要な意味を持つのです。というのも、民衆のうち誰が人間らしくない王に支配されたいと願うでしょうか。しかし、アサはこのマアカから『王母』という称号を取り上げました。何故なら、聖徒たちの王国において忌まわしい偶像崇拝者が名誉を持つべきではないからです。ユダにおいて誉れを持つべきなのは当然ながら神の御前で敬虔な者です。アサがこうしたからといって、母を蔑ろにしたと非難されるには値しませんでした。聖徒たちは母よりも神を優先させねばならないからです。もしアサが母を神とその戒めより優先させていたならば、母のほうを神よりも上位に置くこととなり、偶像崇拝となってしまいます。アサは何よりも優先すべき存在である神を母よりも優先させ、神のために母から称号を取り上げたのですから、そうしたのは正しいことだったのです。しかし、アサが母を『王母の位から退けた』と言っても、死刑にすることで退けることはなかったでしょう。アサは母から光栄ある称号と地位を取り除いただけであるはずです。しかしながら、もう母に二度と偶像を造らせないよう、隔離するなど何らかの制限により行動を縛り付けた可能性はかなりあります。こうしてアサは母の造った『憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼』きました。アサが母の造った物だからというので、偶像に対して手加減するわけにはいきませんでした。もし手加減して母に思いやりをかけるならば、アサは神を恐れていないことになるからです。当然ながらアサは母の感情より神をこそ恐れるべきでした。

 

 アサがこのように母の偶像を取り除けたのは、アサが王であり、神から強大な権威を与えられていたからです。アサの持つ王権には母さえも服さねばなりませんでした。アサは神から受けた王権を正しく行使したことになります。私たちも、もし偶像を取り除ける合法的な権威があるならば、是非ともそうすべきでしょう。例えば一家の父である者ならば、自分の家では偶像を完全に禁止し、もし家族の誰かが偶像を家に持ち運んだならば捨てさせ、どうしても捨てないようであればその家族を家から追い出すべきです。アサがユダ王国に対する支配権を持っていたのと似て、一家の父はその家に対する権威を持っていますから、このようにすることは可能であり、可能であれば是非ともそうすべきなのです。もし家に偶像が置かれることでもあれば、神の御怒りがその家に対して燃え上がり、その一家は呪われた悲惨を味わうことにもなりかねません。