聖書の学び

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Ⅰ列王記12:28~30(2024/02/09)

【12:28~30】
『そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。』
 このままであれば、本当にイスラエルがレハブアムに回帰し、ヤロブアムは殺されてしまいかねません。そうならないため、ヤロブアム『王は相談』しました。相談した相手は長老とか側近とかだったと考えられます。相談した具体的な内容については書かれていません。このような相談をした結果、ヤロブアムは『金の子牛を二つ造り』ました。この子牛は偶像です。ヤロブアムは、イスラエル人がレハブアムのもとに帰らないため、このような子牛の偶像を造りました。というのもこの子牛を礼拝するならば、民はそれで十分とし、レハブアムのいるエルサレムには行かないことになるからです。この子牛が『金』で造られたのは、それを神だと思わせるためです。金ほど何かを神だと思い込ませるに相応しい物質はないでしょう。またこれが『二つ』造られたのは、『一つをベテルに据え、一つをダンに安置』するためでした。『ベテル』は北王国イスラエルの最も南に位置しており、『ダン』は最も南西の場所にあります。ヤロブアムはこの子牛を『神々』と呼んでいます。申命記で書かれている通り、神は『ただひとり』であられます。パウロも『神は唯一』であると述べています。つまり、真の神とは「神」であり「神々」ではありません。それなのに真の神を『神々』と呼んだヤロブアムは気が狂っていました。このような偶像制作が極めて大きな罪である理由の一つは、神の無限性を物質の有限性に閉じ込めるからです。神がこのような偶像にまで下げられるのは、神を最大に侮辱することです。何故なら、このような偶像は神が有限であると主張しているのも同然だからです。ですから、ヤロブアムは子牛の制作により実に大きな罪を犯したのです。この罪は、十戒の第二番目に違反しています。そこでは偶像を造るなと命じられているからです。しかし、十戒の第一番目には違反していないと思われます。何故なら、ヤロブアムは神を子牛の偶像として表示しただけであり、何か他の神々を捏造したわけではないからです。

 

 民は、このうち『ダンに安置』された子牛を礼拝しました。70人訳聖書では、ベテルのほうも礼拝したと訳されている写本があります。しかし解釈上の安全のため、ここではヘブル語原文の内容だけに沿って考えておくのがよいでしょう。民がダンの子牛を拝んだのは罪となりました。これもやはり十戒の第二番目に違反しているからです。そこでは偶像を拝むなと命じられているからです。このようにしてヤロブアムも民も偶像崇拝者となり堕落してしまいました。

 

 先にも述べた通り、相談すること自体は間違っていません。ヤロブアムが相談したことは聖書に適っており良いことでした。しかし、相談は良かったものの、相談した結果が最悪だったのです。このような最悪の結果が生じるぐらいであれば、寧ろ相談しないほうがましでした。これでは相談した意味がありません。何故なら、相談する目的は良い結果を生じさせるためだからです。ですから、ヤロブアムは相談したとしても、最悪の結果となるぐらいならば、その相談を無効にすべきでした。しかし、ヤロブアムはその相談を有効としました。「愚か」とはこのようなことを言うのです。このことからも分かる通り、相談が必ず良い結果を生じさせるわけではありません。しかし、なるべく良い結果を生じさせるべく相談は行なうのが望ましいことです。