【1:42】
『彼がまだそう言っているうちに、祭司エブヤタルの子ヨナタンがやって来た。アドニヤは言った。「はいりなさい。あなたは勇敢な人だから、良い知らせを持って来たのだろう。」』
ヨアブが話していると、アドニヤたちのもとに『祭司エブヤタルの子ヨナタン』がやって来ます。この時にアドニヤはまだ都で何が起きているのか全く知りませんでした。しかし、アドニヤはこのヨナタンが都のことで『良い知らせ』を持って来たに違いないと思います。というのも、このヨナタンは『勇敢な人』だったからです。彼と同名であるサウルの子ヨナタンも、勇敢な人でした。この通り、アドニヤは大きな音のことで期待を抱きました。しかし、ヨナタンが持って来た報告は、アドニヤの期待を粉々に打ち砕く内容でした。このように、愚かな者には悲惨な不幸が容赦なく襲いかかって来るものです。ですから、愚かな者たちはずっと喜び続けることができません。呪われた者の喜びは束の間だと定められているからです。
【1:43~45】
『ヨナタンはアドニヤに答えて言った。「いいえ、私たちの君、ダビデ王はソロモンを王としました。ダビデ王は、祭司ツァドクと預言者ナタンとエホヤダの子ベナヤ、それにケレテ人とペレテ人とをソロモンにつけて送り出しました。彼らはソロモンを王の雌騾馬に乗せ、祭司ツァドクと預言者ナタンがギホンで彼に油をそそいで王としました。こうして彼らが大喜びで、そこから上って来たので、都が騒々しくなったのです。あなたがたの聞いたあの物音はそれです。』
アドニヤの期待を裏切るかのようにして、ヨナタンは都で起きた出来事をありのままに告げ知らせます。アドニヤはこのような報告を間違っても聞きたくなかったでしょう。ヨナタンの報告が出来れば嘘であると思いたかったことでしょう。しかし、ヨナタンは事実をそのまま告げました。悪い者を不幸な現実は容赦なく呑み込んでしまうものです。45節目では、『祭司ツァドクと預言者ナタン』の2人がソロモンに『油をそそいで王とし』たと書かれています。先に見たⅠ列王記1:39の箇所では、祭司ツァドクがソロモンに油を注いだとしか書かれていませんでした。先の箇所では、ただツァドクが油を注いだとしか書かれていなかっただけです。この箇所から分かる通り、実際はナタンもツァドクと共に油を注いでいました。
【1:46~48】
『しかも、ソロモンはすでに王の座に着きました。そのうえ、王の家来たちが来て、『神が、ソロモンの名をあなたの名よりも輝かせ、その王座をあなたの王座よりもすぐれたものとされますように。』と言って、私たちの君、ダビデ王に祝福のことばを述べました。すると王は寝台のうえで礼拝をしました。また、王はこう言われました。『きょう、私の王座に着く者を与えてくださって、私がこの目で見るようにしてくださったイスラエルの神、主はほむべきかな。』」』
ヨナタンは更に追い打ちを掛けるかのごとく、アドニヤにとって耐え難い報告を続けます。ヨナタンは既にソロモンが王としての任職に関わる全てを完了させたことを告げ知らせました。もうアドニヤがどのようにしても変えられない状況となっていたのです。王となったソロモンがダビデの前に来た際、ダビデはソロモンのことで神に礼拝しました。これは神がソロモンのことで良くして下さったからです。ダビデがそのように礼拝したのは『寝台の上』でした。ダビデが寝台の上で礼拝したとしても、いい加減だと言うことはできませんでした。何故なら、ダビデは老いのため寝台で寝ているしかない状態だったはずだからです。もし寝台から起き上がって礼拝できたとすれば、ダビデはそうしていたことでしょう。身体がどうだからというので礼拝を差し控えるということのほうがよっぽどいい加減でした。また、ダビデはその時、ソロモンのことで神を褒め称えました(48節)。これは神が恵んで下さらなければソロモンに王権は与えられておらず、ダビデが王となったソロモンを見ることも出来なかったからです。この時、ダビデは心からの感謝をもって、神を褒め称えたはずです。
私たちもダビデのような状況となり、後継者がしっかり与えられたならば、ダビデと同じように神を褒め称えるべきでしょう。というのも、神に恵まれていなければ後継者が現われないか、たとえ現われても呪われた後継者となるからです。神に恵まれるからこそ恵まれた後継者も現われるのです。もし恵みを受けたにもかかわらず、神を褒め称えなければ、忘恩の徒となりかねません。そのような忘恩の者となれば私たちは一体どうなるのでしょうか。その場合、私たちに与えられる御恵みは減少するでしょう。神からの呪いを招く可能性も十分にあります。それは神が御自分に栄光を帰さない者を喜ばれないからです。