聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記13:2(2024/02/15)

【13:2】

『『見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼は、おまえの上で香をたく高き所の祭司たちをいけにえとしておまえの上にささげ、人の骨がおまえの上で焼かれる。』」』
 神が神の人により預言を語っておられます。神は、ダビデ王家に『ひとりの男の子が』生まれると言われます。これはヨシヤ王のことです。ヨシヤは南王国ユダにおける第16代目の王です。彼は紀元前7世紀の王であり、エレミヤやナホムやハバククやゼパニヤと同時代の人でした。このヨシヤから数えて4代目になると、ユダはバビロンに捕囚されることとなります。ヨシヤの時代にもう北王国イスラエルは存在していません。この『ヨシヤ』は、不敬虔なユダヤ諸王の中にあって、例外的に敬虔な王として歩みました。ヤロブアムの時代に、まだこのヨシヤは生まれてさえいませんでした。彼が生まれるのは、ヤロブアムの頃から約300年後となります。しかし、神はこのヨシヤについてここで預言しておられます。神は全てを御計画されたのであり、このため起こることの全てを予め知っておられるからです。神は、このヨシヤがヤロブアムの上に勝手な祭司たちを生贄として捧げると預言しておられます。何故なら、ヨシヤ王は非常に敬虔な王だったからです。これは実際にやがて実現することとなります。このことについて、ここでは『見よ。』と言われています。ヤロブアムの時代で、この預言が実現しているのを見ることは誰にもできません。しかし、それでもここでは『見よ。』と言われています。これはつまりヤロブアムがやがて受ける悲惨に精神的な目を強く向けよ、という意味です。

 

 ヤロブアムにやがてこういった出来事が起こるのは、ヤロブアムの罪に対する刑罰でした。ヤロブアムは悪に陥ったので罰を受けねばなりません。しかも、自分が罪を犯した場所で自分も罰されることになります。これは罪と罪に対する刑罰が対応しているべきだからです。もし刑罰が罪と対応していなければ、その刑罰が何に対する刑罰なのか分かりにくくなります。こうであれば適切さがありません。神は不適切なことはなさらない御方です。このようにしてヤロブアムはやがて悲惨となります。しかし、ソロモンの場合と同じで、ヤロブアムはこの刑罰を直接的に感じることがありません。その刑罰が下されるのは、ヤロブアムが死んでから約300年後のことだからです。しかし、そうであっても、このような刑罰の宣告はヤロブアムに多かれ少なかれ精神的なダメージを与えたはずです。何故なら、王とは自分が名声のうちに死後も保たれることを望むものだからです。もし死後は名声など別にどうでもいいと思う王がいたとすれば、そのような王は小物なのです。そういった小物の王は、死んでからだけでなく生きている時さえも自分の名声をそこまで重視しないでしょう。