聖書の学び

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Ⅰ列王記14:1~3(2024/03/02)

【14:1】
『このころ、ヤロブアムの子アビヤが病気になったので、』
 神の人が死んで葬られた頃、『ヤロブアムの子アビヤが病気にな』りました。ヤロブアムには妻と子がいました。しかし、ヤロブアムに何人の子がいたか、この『アビヤ』が何番目の子なのかまでは分かりません。また、アビヤがなった病気も何だったかは分かりません。後の箇所から分かるのは、それが死に至る病だったということです。つまり、それは致命的な病気でした。アビヤが病気になったのは、ヤロブアムが偶像崇拝を行なったことに対する神からの罰でしょう。何故なら、律法では罪を犯すならば子が呪われると言われているからです。『あなたの産む子も呪われる。』と申命記で書かれている通りです。ヤロブアムのような支配者や権威者の場合、罪を犯した者自身でなく、その下に属する者を神は打たれる場合がしばしばあります。これは罪を犯したその者に思い知らせ、悔い改めを促すためです。というのも、自分自身が打たれるより自分の従属者が打たれるほうが、より精神的な痛みは大きくなるものだからです。

 

【14:2~3】
『ヤロブアムは妻に言った。「さあ、変装して、ヤロブアムの妻だと悟られないようにしてシロへ行ってくれ。そこには、私がこの民の王となることを私に告げた預言者アヒヤがいる。パン十個と菓子数個、それに、蜜のびんを持って彼のところへ行ってくれ。彼は子どもがどうなるか教えてくれるだろう。」』
 親であれば自分の子がどうなるか心配になるものです。特にこのアビヤのような状態に陥った子であれば尚のことそうです。この時にヤロブアムは『預言者アヒヤ』のことを考えます。アヒヤはかつてヤロブアムがイスラエルの王になることを告げました。この預言者アヒヤであれば、『子どもがどうなるか教えてくれる』と思ったのです。ヤロブアムがこう思ったのは正しいことでした。何故なら、預言者とは神からの御言葉を受ける存在だからです。神はその御言葉により未来のことを語られるのです。しかし、ヤロブアムは自分自身でアヒヤに会うことはできませんでした。偶像崇拝をしているヤロブアムにアヒヤが対応してくれるはずもないからです。罪を悔い改めない限り、アヒヤはヤロブアムに子どものことを教えてくれないでしょう。堕落していたヤロブアムもこのぐらいのことは分かったのです。ですから、ヤロブアムは妻を『変装』させてアヒヤに会わせようとします。これはヤロブアムともヤロブアムの妻とも関わりのない女性だと思われたならば、アヒヤが対応してくれると思ったからでしょう。もし妻だと預言者に知られたら、どうなったのでしょうか。その場合、教えてもらう前に追い払われていたかもしれません。ヤロブアムは妻が預言者のもとに行く際、『パン十個と菓子数個、それに、蜜のびん』を持って行かせました。これは預言者に対する贈り物です。ここでは3つの食べ物が挙げられていますから、これは贈り物として十分だったことを意味しています。このような贈り物を渡せば、預言者から子どものことをしっかり教えてもらえるとヤロブアムは思ったのでしょう。この時に預言者アヒヤは『シロ』にいました。『シロ』とはベテルから20~30kmほど北に離れた場所であり、そこも北王国イスラエルの領地でした。