聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記15:4~5(2024/03/30)

【15:4~5】
『しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。それはダビデが主の目にかなうことを行ない、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。』
 アビヤムは悪の道に進んだのですから、後継者となる王を残さず断ち切られても文句は言えませんでした。アビヤムのような堕落した偶像崇拝者は、神の御怒りを燃え上がらせるからです。しかし、神は『ダビデに免じて』アビヤムを断ち切られませんでした。神はアビヤムの子がしっかり次の王となるようにされたのです。アビヤムにおいて王の流れを断ち切るのは、ダビデからの流れを断ち切ることです。神はそのようにするのを望まれませんでした。ダビデのゆえに神はそれを望まれなかったのです。もしダビデが存在しなければ、恐らくアビヤムは容赦なく断ち切られていたかもしれません。こうして神は『エルサレムを堅く立てられ』ました。アビヤム『の跡を継ぐ子』が起こされ、その子が王となりエルサレムを統治したからです。もし王が不在であればエルサレムは堅く立たず揺らいでしまうのです。

 

 神が『ダビデに免じて』アビヤムの代で流れを断ち切られなかったのは、ダビデが敬虔に歩んだからでした。ダビデは神の御前で本当に敬虔に正しく歩んでいました。それは神の御心に適いました。このようなダビデとアビヤムには強い繋がりがあります。アビヤムはダビデの子孫だからです。ですから、神は敬虔に歩んだダビデを重んじるゆえ、そのダビデの子孫であるアビヤムが後継者を残すように恵まれたのでした。しかし、ダビデが敬虔に歩んだと言っても、『ヘテ人ウリヤのこと』では忌まわしい罪を犯しました。ヘテ人ウリヤにおける罪は本当に大きな極悪でした。その罪は普通の人でさえ犯さないような考えられないものです。けれども、そのような極悪を犯したのは、ダビデの歩みにおいて例外的なことでした。ダビデの歩みを全体的に見るならば、それは実に敬虔なものでした。ですから、ヘテ人ウリヤの罪をダビデが犯したにせよ、神がダビデという存在の全体を嫌うことはされませんでした。だからこそ、この『ダビデに免じて』神はアビヤムのことで大きな配慮をされたのです。