聖書の学び

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Ⅰ列王記15:14~15(2024/04/06)

【15:14】
『高き所は取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた。』
 アサは神殿男娼と偶像を取り除き、神のために母から称号を取り上げることさえしましたが、しかし『高き所は取り除』きませんでした。『高き所』とは偶像を置くために設けられた専用の場所です。アサは偶像を取り除いたのであれば、その偶像を置く『高き所』も一緒に取り除くべきでした。しかし、アサはそうしませんでした。これはアサが徹底していなかった点です。もし徹底していれば『高き所』をもアサは取り除いていたはずだからです。つまり、アサの敬虔さは完全の域にまで達していませんでした。もし達していればアサは中途半端なことをしていなかったでしょう。アサの敬虔さはあと一歩が足りなかったのです。この通り、行ないにおいて人の敬虔さが現われ出ます。何故なら、行ないとは敬虔さ(または不敬虔さ)の度合いをその背景として持つからです。こういうわけで、主は実により木を知れと言われたのです。

 

 しかしながら、『アサの心は一生涯、主と全く一つになってい』ました。つまり、アサは主の御心を自分の思いとしていました。これは正しく主に喜ばれることです。ソロモンやレハブアムやアビヤムの場合は、主と心を一つにしていませんでした。彼らのこういった態度は主に喜ばれなかったでしょう。聖徒である者は誰でも、このアサと同じように、いつも主と一つ心になっているべきです。そうしなければ主に喜ばれることは難しいでしょう。誰がそのことを疑うでしょうか。

 

【15:15】
『彼は、彼の父が聖別した物と、彼が聖別した物、すなわち、銀、金、器類を、主の宮に運び入れた。』
 アサの父アビヤムには『聖別した物』がありました。それがどのような物であり、どのぐらいあったかは、ここで何も示されていません。またアサも『銀、金、器類』を『聖別』していました。しかし、アサがこれらをどのぐらい聖別したかまでは分かりません。『聖別』するとは、神のため使われる聖い物となるように捧げることです。そのように聖別した物は、もう全く神のために使われる物となるのであって、それをもともと所有していた者から所有権は全く失われます。このような聖別は良いことであり、神に喜ばれます。その聖別にパリサイ的な見せかけが伴っていない限りは、確かにそうです。アサは、父と自分が聖別した物を『主の宮に運び入れ』ました。恐らくアサは自分が聖別した物を神殿に運び入れる際、父が聖別した物も一緒に運び入れたのでしょう。アサの父アビヤムは聖別したものの、その聖別した物を神殿に運び入れていなかったのです。これはアビヤムの短い治世がその理由だったかもしれませんし、不敬虔な態度が理由だった可能性もあります。もし前者であれば時間的な問題により仕方なかったはずであり、後者であれば神の御前ですることがいい加減だったのでしょう。