聖書の学び

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Ⅰ列王記15:27~28(2024/04/15)

【15:27~28】
『バシャはペリシテ人のギベトンで彼を打った。ナダブと全イスラエルはギベトンを攻め囲んでいた。こうしてバシャはユダの王アサの第三年に、彼を殺し、彼に代わって王となった。』
 ナダブ王は、当然ながら謀反者であるバシャと戦い、彼を葬ろうとしました。このような謀反者が出た場合、王が殺そうとするのは、ごく普通のことです。しかも、王がその謀反者を殺したとしても、それは王権を合法的に行使しただけですから、通常であれば罪となりません。それは殺人行為というより処刑と言ったほうが正しいからです。しかし、この時に謀反を企てたバシャは、ナダブに対する呪いの意味がありました。このバシャは言わばナダブに対する神の刑罰道具でした。ですから、ナダブがこのバシャを殺すことは決してできませんでした。このバシャとナダブは、『ペリシテ人のギベトン』で戦っていました。この『ギベトン』は地中海から幾らか内陸部に入った地域です。そこは以前、ダンの相続地でした。その戦いでは『ナダブと全イスラエル』が『ギベトンを攻め囲んでいた』のですから、ナダブ軍のほうがバシャ軍より優勢だったのかもしれません。しかし、ナダブはそこでバシャにより打ち取られました。これはナダブが罰せられるべき罪深い歩みをしていたからです。結局のところ、罪深いほうが神から罰せられて敗北に至ります。日本も第二次世界大戦の際、最初はかなり良い調子であり、連合国軍を苦境に追い込んでいました。しかし、日本は罪深かったので、神から罰せられて結局は悲惨な敗北を味わうこととなったのです。こういうわけですから、もしナダブが罪深い歩みをしていなければ、バシャから打ち取られることもなかったでしょう。その場合、バシャは堕落に陥っていないので、神の呪いを受けて悲惨になる要因が無いからです。というより、その場合であれば、そもそもバシャがナダブに対して謀反を起こすことも無かったでしょう。

 

 こうしてバシャは謀反の対象であるナダブを打ち殺し、アサがユダ王となってから『第三年に』、ナダブ『に代わって王とな』りました。ナダブがイスラエル王であるのは、もう神の御心ではなくなったのです。これからはバシャがイスラエル王となることこそ神の御心でした。だからこそ、このようにしてナダブと入れ替わるようにしてバシャが次の王となったのです。これは全てが神の御心により決まり、導かれ、変動するのだからです。