聖書の学び

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Ⅰ列王記18:25~26(2024/05/27)

【18:25】
『エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたがたで一頭の雄牛を選び、あなたがたのほうからまず始めよ。人数が多いのだから。あなたがたの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」』
 戦いの始めにおいて、まずエリヤはバアルの預言者たちが『一頭の雄牛を選』ぶように命じます。エリヤはバアルの預言者たちが選ばなかったほうの雄牛を使うのです。どうしてバアルの預言者たちが先だったかと言えば、それは『人数が多いのだから』です。多数派のほうが先に行なうというのは、よくあることです。エリヤはまずバアル崇拝者たちからバアルの『神の名を呼べ』と言っていますが、それはエリヤにとって忌まわしいことであり、出来るならばイスラエル人に止めさせたいことでした。しかし、それでもエリヤはイスラエル人がバアルを呼ぶようにと命じるのです。これは必要あってのことであり、決してエリヤがイスラエル人を罪に導いているのではありません。バアル崇拝者たちがバアルの名を呼んでも、『火をつけてはな』りませんでした。小学生でも分かるでしょうが、このような状況の時に火を付けたらなら、全てが無意味となるからです。人が火を付けないからこそ、この時に真の神がどちらなのか明らかとなるわけです。

 

【18:26】
『そこで、彼らは与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」』
 バアルの預言者たちは、エリヤに命じられた通り、生贄の準備を整え、自分たちの神であるバアルの名を呼びました。神の民である者たちが『バアルよ。私たちに答えてください。』などと言うのは、何という酷さ、何という醜い光景でしょうか。これは最悪のことです。しかし、これが当時のイスラエルにおける現実でした。これが現実となるほどまでイスラエルは堕落していたわけです。この時にバアルの預言者たちがバアルの名を呼んだのは、つまり彼らがバアルであれば応じてくれると期待していたからに他なりません。すなわち、バアルであれば火をもって答えてくれるだろうと。もしこういった期待を僅かでさえも持っていなければ、彼らもバアルの名を呼ぶことはしなかったでしょう。何故なら、全く応じることがないと分かっている対象に、どこの誰が応じられることを求めて呼ぶのでしょうか。しかし、彼らには期待がありましたからバアルを呼んだのです。ここに彼らの忌まわしいバアル信仰がありました。

 

『しかし、何の声もなく、答える者もなかった。』
 バアルの預言者たちがバアルを呼んだものの、『何の声もなく、答える者も』ありませんでした。これはバアルが偽りの神であって、人間が勝手に考え出した実際は存在しない存在だからです。何もない空間に向かって誰かが呼んだとすれば、その空間は果たして答えてくれるでしょうか。あり得ないことです。これと同じでバアルの預言者たちがバアルを呼んだのは、無に向かって呼ぶのも同然でした。もしバアルが本当の神であれば、バアルはイスラエル人たちの呼ぶ声に応じていたでしょうから、バアルの声や答えが必ずあったことでしょう。