聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記18:26~27(2024/05/28)

【18:26】
『そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。』
 バアルの預言者たちは、心からの誠実さでバアルを呼んでいたはずです。しかし、そのような声にバアルは全く答えませんでした。バアルとは無の存在でしかないからです。ですから、バアルの預言者たちは全く虚しいことをしていました。もし本当にバアルが神ならば、必ずバアルの預言者たちに答えていたことでしょう。バアル崇拝者たちが呼んでも反応はありませんでしたから、彼らは自分たちの求めがまだまだ足りないと判断したはずです。このため、彼らは『自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った』のです。こうすればバアルに答えてもらえると思ったからです。すなわち、こうすればバアルは祭壇の生贄に火を付けてくれるだろうと。神の民であるイスラエル人たちが、こういった忌まわしい行為をするのは何と不気味だったでしょうか。これほどに耐え難い光景が他にあったでしょうか。しかし、この時のイスラエル人は平気でこういったことを行ないました。それほどまでにイスラエル人は堕落していたわけです。このようにしてバアル崇拝をしていたイスラエル人たちの醜態が、聖書で永遠に記録されることとなりました。彼らは聖書においていつまでも恥辱を受け続けるのです。これは彼らに対する神からの正当な報いだったのでしょう。

 

【18:27】
『真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」』
 バアル崇拝者たちが『朝から真昼までバアルの名を呼んで』も反応はなく、それから踊り始めたものですから、それを見たエリヤは『彼らをあざけ』りました。エリヤが嘲ったのは、バアル崇拝者たちの振る舞いがあまりにも馬鹿げていたからです。この時にエリヤは『もっと大きな声で呼んでみよ。』と言います。何故なら、バアルは『神なのだから』です。つまり、もしバアルが本当に神であれば『大きな声で呼んでみ』ることにより答えてもらえるだろうと言うのです。しかし、エリヤはどれだけ大きな声で呼んでも決して応じてもらえないことをよく知っていました。このようなバアルをここでエリヤは大いにからかっています。まずエリヤはバアルが『何かに没頭しているか』もしれないと言います。つまり、大きな声で呼べば『何かに没頭している』バアルも気付いてくれるだろうというわけです。次にエリヤはバアルが『席をはずしているか』もしれないと言います。これもバアルを馬鹿にしているのです。そしてエリヤはバアルが『旅に出ているの』かもしれないとも言います。自分に対する崇拝者たちを無視して旅行するというのは、何という神でしょうか。更にエリヤはバアルが『寝ているかもしれない』とも言います。このような時に寝ているバアルは、何といい加減な神でしょうか。エリヤはバアルが存在していないことを知っていましたから、このように大胆な嘲りをすることができたのでした。

 

 この通り、エリヤは偽りの神であるバアルを容赦なく嘲りました。聖書もやはり多くの箇所で偽りの神を容赦なく嘲っています。これは偽りの神々が存在しておらず、しかも真の神から栄光を奪い取る忌まわしい存在だからなのです。神にとって偽りの神々は目障りな存在です。ですから、神が聖書で偽りの神々を非難しておられるのは当然なのです。教会も、エリヤのように偽りの神々を非難すべきです。偽りの神々とは神に敵する邪悪な存在なのですから、神を愛する聖徒たちはその偽りの神々を否定せねばなりません。他宗教における偽りの神々を尊重する聖徒は、真の神を愛していないのです。しかしながら、人々は偽りの神々を神として平気で崇めています。これは大変に惨めな状態です。それゆえ、教会は彼らが偽りの神々から離れるようになるのを望まねばなりません。