聖書の学び

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Ⅰ列王記18:21(2024/05/24)

【18:21】
『エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」』
 エリヤがカルメル山に行ったこと、また民がカルメル山に集まったことの詳細は、ここで省かれています。しかし、彼らがカルメル山にまで集まった歩みは、知らなくても問題ないことです。私たちは、ただ彼らがカルメル山に集まったことだけを知っていればそれで十分です。そのようにして集まった民に対し、エリヤは重要なことを語ります。エリヤが語ったのは、イスラエルが酷い偶像崇拝の罪に陥っていたからです。もし彼らが偶像崇拝の罪を犯していなければ、エリヤもこんなことを言う必要はありませんでした。ここでエリヤは、イスラエル人が『どっちつかずによろめいている』と言っています。イスラエル人は偶像崇拝を行なっていたものの、しかし真の神と神崇拝が全く頭から離れたわけではありませんでした。彼らも神に従わなければならないことぐらい分かっていたはずです。しかし、彼らは偶像を何とかして拝みたかったのです。ですから、イスラエル人の心に霊的な葛藤があったことは間違いありません。その葛藤がここでは『どっちつかずによろめいている』と言われているのでしょう。こういった揺らいだ状態を持つイスラエルに対し、エリヤは『もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。』と言います。エリヤはイスラエル人が神のことで態度をはっきりするよう求めたのです。エリヤがこういったのは当然のことでした。何故なら、神である存在に従うというのは、あまりにも当然のことだからです。

 

『しかし、民は一言も彼に答えなかった。』
 このようにエリヤから態度をしっかり持つよう命じられたイスラエル人たちは、『一言も彼に答えなかった』のですが、これは彼らの心が揺らいでいたからです。彼らが神の民として神に従うべきであることは明らかでした。しかし、彼らはどうしてもバアルやアシェラといった偶像に従いたかったのです。もし神を神として認め、その神に従うというのであれば、バアルやアシェラなどに従うことはできなくなります。何故なら、真の神は御民が偶像に従うことを決して許されないからです。このため、イスラエル人は一言もエリヤに答えなかったのです。彼らは「答えなかった」と言えるだけでなく、「答えられなかった」と言うこともできるでしょう。葛藤による揺らぎが彼らの口を封じて返答できなくさせていたからです。しかし、当然ながら彼らはエリヤにしっかりと答えるべきでした。すなわち、彼らは「私たちはもうバアル崇拝を止めて神に立ち返ります。」と言うべきだったのです。