聖書の学び

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Ⅰ列王記18:22(2024/05/25)

【18:22】
『そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。』
 エリヤが態度をはっきりさせるよう求めたものの、イスラエルはその求めに応じませんでしたから、エリヤ『ひとりが主の預言者として残っている』状況が明らかとなりました。後の箇所から分かる通り、実際はエリヤ以外にもバアル崇拝を行なっていないユダヤ人が存在していました。しかし、この時のイスラエルはどこを見てもバアル崇拝をするユダヤ人ばかりでした。現に、エリヤの前に立っている人々は全て偶像崇拝者のユダヤ人でした。ですから、この時にエリヤが『私ひとりが主の預言者として残っている。』と言ったとしても自然なことでした。このように言った時のエリヤはどのような思いを持っていたでしょうか。怒り、悲しみ、嘆き…。こういった感情がエリヤの心にはあったと思われます。

 

 カルメル山にいた『主の預言者』はただエリヤ『ひとり』だけでしたが、『しかし、バアルの預言者は四百五十人』でした。1人と450人。この数における差はあまりにも明白です。預言者でない一般のバアル崇拝者も含めれば、この時のイスラエルにバアル崇拝をする者はどれだけいたことでしょうか。しかし、神の御前で正しいのは言うまでもなくエリヤのほうでした。コペルニクスの場合を考えても分かる通り、少数派こそが真に正しい立場である場合も珍しくないのです。

 

 このようにエリヤはイスラエルにおいて真に正しい立場を持つ僅かな者でした。いつの時代もだいたい正しい者は少数派であるものです。ノアの時代でも、神の御前で正しいのはノアだけでした。宗教改革の時代でも、宗教改革者たちは教皇主義者たちに比べれば少数派だったのです。このため、カルヴァン教皇主義者たちからの迫害を逃れて洞窟で礼拝を持つ状況となったのです。今の日本でも真のキリスト者である聖徒たちはごく僅かだけしかいません。ですから、たとえ少数派だからといって駄目だということにはなりません。寧ろ少数派だからこそ神に喜ばれる場合も多くあるのです。しかし、人間の精神は多数派こそが正しいと思い込む傾向を強く持っています。何故なら、どうしても人間は多くの人が奉じているのであれば正しいに決まっていると感じてしまうからです。ところが、こういった意識は、人間の精神が堕落しているため間違いやすいという真実を全く考慮していないのです。このため、エリヤの時代やコペルニクスの時代のように、多数派が間違っており少数派が正しいという状況になるのは決して珍しくないのです。