聖書の学び

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Ⅰ列王記19:10~11(2024/06/22)

【19:10】
『彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」』
 エリヤが熱心に神に仕えているのは、神の御前で実に喜ばしいことでした。ですが、このためにエリヤはイスラエル人たちから『いのちを取ろうとねら』われたのです。何故なら、神に熱心なエリヤは、イスラエル人たちが拝むバアルを否認するからです。イスラエル人たちはバアルを崇拝していますから、このような否認に耐えられません。耐えられないのであればエリヤを殺そうとするしかありませんでした。このエリヤもそうですが、神に熱心に仕える者は迫害や困難を受けるものです。それはサタンが強く働くからです。エリヤ以外でも、ダビデパウロがそうでした。教父たちや宗教改革者たちもそうでした。主もやはりこの通りでした。

 

【19:11】
『主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」』
 エリヤの言葉を聞かれた神は、エリヤが『外に出』るよう命じます。エリヤは穴の中にいたからです。それからエリヤは『山の上で主の前に立』たねばなりません。これは神が御自分をエリヤに示されるためです。エリヤは神に熱心に仕えていましたから、神はエリヤに御自分を強く示して下さるのです。何故なら、求める者には与えられるものだからです。

 

『すると、そのとき、主が通り過ぎられ、』
 エリヤが神から命じられた通り山の上に行くと、そこで『主が通り過ぎられ』ました。神は場所を問わずどこにでもおられます。『わたしは、天にも地にも、満ちているではないか。』と神が預言者の書で言っておられる通りです。ですから、神は常にあらゆる場所を通り過ぎておられると言うこともできます。であれば『主が通り過ぎられ』とここで言われているのは、主がその場所で物質的に極めて強い臨在をもって働きかけられたという意味なのでしょう。神は目に見えず、物質を超越した無限の存在であられ、ソロモンも述べた通り天も天の天も神を入れることは決してできません。ですからここで『主が通り過ぎられ』と言われているのを文字通り厳密に物質的に考えるならば、神を有限な物質者として捉えてしまうことにもなりましょう。それゆえ、この『主が通り過ぎられ』という部分は、今ここで述べられた通り、強い臨在をもって為された働きかけという意味に解するのが望ましいでしょう。