聖書の学び

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Ⅰ列王記19:20(2024/07/04)

【19:20】
『エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」』
 エリシャの求めを聞いたエリヤは、その求めを承諾します。エリヤは『私があなたに何をしたというのか。』とエリヤに言います。これは、エリシャを後継者として任命したからといって自由を妨げることはしない、という意味でしょう。要するにエリヤはエリシャの求めを悪いとしませんでした。エリシャは『父と母とに口づけ』しに行っていいのです。この時にエリシャが求めを承諾されなかったとしても、エリシャはエリヤに仕えたことでしょう。実際はエリヤに承諾されましたから、エリシャにとっては幸いでした。しかし、そもそもエリシャはこのような求めをしてよかったのでしょうか。これは問題のない求めでした。何故なら、聖書は『父と母を敬え。』と命じているからです。この時のエリシャの求めは律法に適っていたのです。

 

 ここにおいて思い出されるのは、福音書のキリストです。主も、御自分に仕えるべき者たちを召し出されました。しかし、主は御自分に仕えるべき者たちが、本当にすぐ付いて来るよう求められました。エリヤの場合は、すぐにでなくても構わないとしました。これはキリストとエリヤにおける非常に大きな違いです。キリストがもうすぐにも付いて来るよう言われた命令は、家族を無視してでも必ず従われるべきでした。何故なら、キリストは親族よりも優先されねばならない御方だからです。もしキリストよりも親族を優先したとすれば、そのようにする者はキリストを主としていないことになるでしょう。一方でエリヤはエリシャの主ではありませんでした。エリシャの主はエリヤでなく神です。このため、エリシャの場合は、家族の義務を果たすため遅らせたとしても問題視されなかったのです。もしエリヤがエリシャの求めを承諾せず、すぐエリシャが付いて来るように命じたとすれば、エリヤがエリシャの主でもあるかのようになったでしょう。