聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記15:31~34(2024/04/17)

【15:31】
『ナダブのその他の業績、彼の行なったすべての事、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。』
 ナダブに関する聖書で書かれていない事柄も、やはり『イスラエルの王たちの年代記の書にしるされてい』ました。先の箇所でアサについて書かれていた『功績』(Ⅰ列王記15章23節)という言葉は、ナダブについて書かれていません。ナダブの場合は『業績』と書かれているだけです。これはナダブがアサと異なり、記憶すべき重要な事業をしなかったからなのでしょう。またナダブについては、アサの箇所で書かれていた『建てた町々』という言葉も、書かれていません。これもやはりアサが特にこれといった建設事業をしなかったからなのでしょう。先に見た通り、アサは『二年間、イスラエルの王であった』(Ⅰ列王記15:25)だけですから、『年代記の書にしるされている』記録もそこまで多くなかったと考えられます。

 

【15:32】
『アサとイスラエルの王バシャとの間には、彼らの生きている間、争いがあった。』
 アサとバシャは、それまでのユダ王とイスラエル王がそうだったのと同様、ずっと対立を続けていました。ソロモンに対する神の呪いが現実化した状態であり続けるため、ユダ王とイスラエル王はどうしても対立し続けていなければなりませんでした。もしそのような呪われた状態が続かなければ、ソロモンは罪を犯していなかったことになるでしょう。その場合、そもそもユダヤは南北2つの国に分裂したりしなかったことでしょう。

 

【15:33~34】
『ユダの王アサの第三年に、アヒヤの子バシャがティルツァで全イスラエルの王となった。治世は二十四年。彼は主の目の前に悪を行ない、ヤロブアムの道に歩み、ヤロブアムがイスラエルに犯させた彼の罪の道に歩んだ。』
 既に見た通り、バシャは『ユダの王アサの第三年に』イスラエル王となりました。その『治世は二十四年』ですが、ここでの「24」という数字に象徴性は恐らく無いでしょう。もしあるとすれば、選びを示す「12」かける「2」でしょう。こうである場合、ここでの「24年」は、バシャが選ばれていたことを強調しているのです。しかし、このようにここでの「24」を解するのはあまり自然だと感じられません。このバシャが王となった『ティルツァ』は、イスラエル王国の中央をやや南東に逸れた場所にあります。

 

 34節目で書かれている通り、このバシャもやはり堕落しており、罪深い歩みをしました。バシャもヤロブアムから続く堕落の流れに呑み込まれていました。34節目の箇所で言われている内容は、先に見たナダブの箇所と(Ⅰ列王記15:26)、内容的に何も変わりません。ただ34節目の箇所で『ヤロブアム』と書かれている部分は、ナダブの箇所では『彼の父』また『父』と書かれています。これはナダブがヤロブアムを父として持ち、バシャはヤロブアムと親族関係を持たなかったからです。この通り、バシャは自分が行なった悪により当然の刑罰を受けました。私たちは決してこのバシャのようになるべきではありません。寧ろ、私たちはバシャの逆とならねばなりません。すなわち、主の目の前に善を行ない、ヤロブアムの道に歩まず、罪を避けるようにすべきです。