聖書の学び

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Ⅰ列王記16:1~2(2024/04/18)

【16:1】
『そのとき、ハナニの子エフーにバシャに対する次のような主のことばがあった。』
 バシャ時代のイスラエルには、預言者が存在していました。その預言者の一人である『エフー』に対し、バシャへの宣告が神から与えられました。神はバシャに直に語ることをされませんでした。そうではなく、神は預言者の口を通して語ることにされたのです。それが神のやり方だからです。この時にエフーが受けた『主のことば』は、実際的な音声による言葉だったでしょう。つまり、神が直接的にエフーに語りかけたのです。しかし、その音声はエフーにだけ聞こえるものだったはずです。

 

【16:2】
『「わたしはあなたをちりから引き上げ、わたしの民イスラエルの君主としたが、』
 まだ王になる前のバシャは、取るに足らない一般の者に過ぎませんでした。つまり、その時のバシャは『ちり』でした。『ちり』は無価値で注目されませんが、バシャもそのような者だったのです。しかし、神はそのようなバシャを『引き上げ』、イスラエルの王にまで高められました。このように高められるのは大きなことです。ダビデやサウルも、そのようにして塵から王にまで引き上げられました。このように神はしばしば塵を高い地位へと引き上げられる御方です。どうして塵が選ばれるかと言えば、それはその引き上げにおいて、神の御業が浮き彫りにされるためです。何故なら、神の働きかけでなければ、どうして塵が王になったりするでしょうか。神はそのようにして御自分の栄光を現わされるのです。

 

『あなたはヤロブアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りを引き起こした。』
 バシャはこのように引き上げられ、神から大きな御恵みを受けたのに、その神に従おうとしませんでした。バシャは神から王に引き上げられたのですから、その神に対し忠実な者となるべきでした。ところが、バシャはそうせず、忌まわしい『ヤロブアムの道に歩』んだのです。それどころか、バシャは自分が罪深い者となるだけでなく、『民イスラエルに罪を犯させ』ることまでしました。自分が堕落するだけでも罪深いことなのに、バシャは他の多くの人々をも堕落させたのです。ですから、バシャは二重に罪深かったことになります。このような二重の罪により、バシャは神の『怒りを引き起こし』ました。神の民は王であれ民衆であれ神に仕えるべきなのに、バシャは自分だけでなく民衆をも神に逆らわせたからです。これを何かに例えるならば、5000億円を贈られた者が、贈った者に害となるようその贈られた5000億円を使うようなものでしょう。こんな酷いことがあるでしょうか。あり得ないことです。ところが、バシャはそのようなことを神に対してしたわけです。このようなバシャの忘恩に対し、神が怒られるのは当然のことでした。