聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記2:4~6(2023/07/04)

【2:4】
『そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が断たれない。』』
 もしダビデの子孫たちが神に聞き従うならば、ダビデ王家がいつまでもしっかり存続すると神はダビデに約束されました。これは神が子孫たちに祝福を与えて下さるからです。ソロモンも神に聞き従うのであれば、その子孫から王座が取り去られることはありませんでした。しかし、ソロモンが不敬虔になるならば、その子孫から王座は取り去られることとなります。ですから、ダビデは何としても神に従うようソロモンに求めているわけです。このように命じられたソロモンは実際にどうなったでしょうか。ある時までソロモンは御前に正しく歩んでいたと言っていいでしょう。しかし、666タラントの金が入り込んで来た辺りからおかしくなり始め、晩年には大変な状態に陥りました。これを例えるならば、最初はコース通りに走っていたランナーが途中から道を間違え、暫くすると崖から池に落ちてしまうようなものです。途中からおかしくなる支配者が人間の中には存在します。あのネロも最初のほうはかなり良かったのですが、途中から堕落して最悪の暴君となったのです。最初は良くてもやがて堕落するというのであれば、あまり意味がありません。そのような人を神は喜ばれません。それならば最初のほうは駄目でも、途中から良くなり、その良い状態を最後まで続けるというほうが優っています。というのも、伝道者の書で言われている通り、『事の終わりはその始まりに優る』のだからです。勿論、もっとも良いのは、言うまでもなく最初から最後までずっと良い状態でい続けることです。

 

【2:5~6】
『また、あなたはツェルヤの子ヨアブが私にしたこと、すなわち、彼がイスラエルのふたりの将軍、ネルの子アブネルとエテルの子アマサにしたことを知っている。彼は彼らを虐殺し、平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけたのだ。だから、あなたは自分の知恵に従って行動しなさい。彼のしらが頭を安らかによみに下させてはならない。』
 ダビデはこの時に至るまで、ヨアブがアブネルとアマサを殺したことを忘れていませんでした。この2人がヨアブに殺された出来事は、既にもう見た通りです。ダビデはこの2人の将軍の殺害が『私にしたこと』であると言っています。これは将軍がダビデという王の部分としての存在だったからです。ヨアブがこの2人を殺したのは悪であり罪でした。何故なら、ヨアブが行なったのは『虐殺』であり、彼は『平和な時に、戦いの血を流し、自分の腰の帯と足のくつに戦いの血をつけた』のだからです。ヨアブはこの2人を殺すべきではありませんでした。しかし、ヨアブはまだその罪に対する罰を受けていませんでした。ですから、ダビデはソロモンがヨアブを死刑にするよう命じています。『あなたは自分の知恵に従って行動しなさい。』と言われたのは、つまり「ヨアブという殺人者を死刑にすることで国家的な正義が実現されるようにせよ。」という意味でしょう。ヨアブはもう『しらが頭』であり、箴言で言われているように白髪は光栄の冠ですが、だからといってダビデはヨアブに情けをかけようとしませんでした。この箇所でダビデはヨアブがアブシャロムを殺したことについて何も言及していません。アブシャロムが殺されたのは彼の謀反に対する当然の罰だったと、ダビデは感じていたのでしょうか。ここでアブネルとアマサの殺害だけが記されており、アブシャロムの殺害に言及していないのは、深く考察するに値します。

 

 この通り、ヨアブの犯した悪は自分の身に返って来ることとなりました。ヨアブは悪を行なったのでその報いが降りかかるのです。悪を行なってもその時はまだ大丈夫かもしれません。しかし、その時は良くても、やがて悪に対する罰がやって来ます。このことからも分かる通り、悪を行なうのは損であり良くないのです。悪を行なうのは将来の自分を自ら不幸にすることなのです。