聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記9:25(2023/12/12)

【9:25】
『ソロモンは、主のために建てた祭壇の上に、一年に三度、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげ、また、主の前にある壇で香をたいた。彼は宮を完成した。』
 宮の庭にはソロモンの建てた『祭壇』がありました。それは庭の北側、宮の正面から見て左側、庭から入って右側に置かれていました。この祭壇が建てられたのは『主のため』でした。もし『主のため』に建てられたのでなければ何のために建てられたのでしょうか。この祭壇を使用するのは全てのイスラエル人でした。一般人は当然ながら使用しますし、祭司や王や預言者であっても祭壇を使用しました。何故なら、イスラエル人で贖いをしなくてもいい人は誰もいないからです。イスラエル人は神の民であったものの罪深い存在でしたから、御自身が犠牲そのものであられたキリストを除き、誰でも祭壇で贖いをする必要がありました。ソロモンはこの祭壇で『一年に三度、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげ』ました。ソロモンがこうしたのは自分独自の判断によりませんでした。ソロモンがこうしたのは律法で、『あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。』(申命記16章16節)と書かれているからでした。この律法における『男子』という言葉は、王も含まれています。ですから、ソロモンはこの祭りに出た際、生贄を主の御前で捧げていたのです。ソロモンは神から多くを受けていましたから、その捧げ物もかなり多くの量だったでしょう。それは祭りにイスラエル人が出る際にこうせねばならないと書かれているからです。『あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。』(申命記16章17節)ソロモンのような富む者が、少しだけしか捧げ物を捧げないというのは相応しくありません。またソロモンはその際、『主の前にある壇で香をた』きました。これは神を宥めるためです。キリストは御自身という生贄による香を父なる神に捧げられました。ソロモンが焚いた香は、このキリストという犠牲を指し示しています。ですから、神はソロモンの焚いた香を嗅がれ、宥められました。父なる神が御自身の御子における香を嗅がれながら宥められないということは決してないからです。

 

 このようにソロモンは聖なる宮を完成させました。ソロモンは知者という面が今でもよく強調されます。神はソロモンに最高の英知を与えられたのですから、確かにソロモンの知が強調されるのは間違っていません。しかし、ソロモンが宮の建設者だったという点も忘れるべきではありません。ソロモンはダビデでさえ行なえなかった宮の建設を成し遂げたのです。神は聖徒を御自分の宮とされるまで、ソロモンの建てた宮を御自分の宮としておられました。その宮が今や聖徒という宮に変えられたわけです。ですから、ソロモンの建築者という面が強調されたとしても、それは間違っていないことです。