【8:62~63】
『それから、王と王のそばにいたイスラエル人はみな、主の前にいけにえをささげた。ソロモンは主へのいけにえとして和解のいけにえをささげた。すなわち牛二万二千頭と羊十二万頭。』
ソロモンが民衆を祝福すると、『王と王のそばにいたイスラエル人はみな、主の前にいけにえをささげ』ました。これは罪の贖いや和解や宥めが無い限り、誰も神の御前に立つことが出来ないからです。この『いけにえ』は御子イエス・キリストを象徴しています。御子を父なる神は愛しておられます。ですから、御子を示すこの『いけにえ』が捧げられることで、イスラエルは神の御前で受け入れられるのです。この時にソロモンが捧げた『和解のいけにえ』は、『牛二万二千頭と羊十二万頭』でした。羊が『十二万頭』だったのは、それらが生贄のため選別された群れだったということでしょう。というのも聖書で「12」は選びを示す数だからです。牛が『二万二千頭』だったのは、数字的な意味を持っていません。これは単に多くの牛が捧げられたというだけのことです。しかし、この『十二万』と『二万』を合計すると「14万」になります。「14」は聖書で短さや少なさ、また部分であることを意味します。ですから、これを合計して「14」と捉えるならば、これらの生贄はソロモンが所有する家畜の部分であったということになります。すなわち、ソロモンが所有する家畜を全て捧げたというのではありません。このように聖書で「14」という数字を見出したならば、よく考える必要があります。
【8:63】
『こうして、王とすべてのイスラエル人は主の宮を奉献した。』
神へ生贄が捧げられると、宮が神に『奉献』されました。神に宮が奉献されるとは、つまり宮が全く神に関わるものとして正式に献上されたということです。こうしてこの宮は完全に神の御前で捧げられることとなりました。ですから、この宮はもう民衆的な建造物ではありません。それは神的な建造物なのです。この時に『主の宮を奉献した』のは、イスラエルの全体でした。つまり、宮は民族的に神の御前で献上されました。ソロモンが個人的に献上したというのではありません。というのもソロモンだけが宮と関わるのではないからです。民全体が宮と関わるため、民全体が宮を神に奉献しなければなりませんでした。