聖書の学び

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Ⅰ列王記12:16(2024/02/03)

【12:16】
『民は王に答えて言った。「ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう。エッサイの子には、ゆずりの地がない。イスラエルよ。あなたの天幕に帰れ。ダビデよ。今、あなたの家を見よ。」こうして、イスラエルは自分たちの天幕へ帰って行った。』
 レハブアムが求めを受け入れなかったので、民はレハブアムに対し反発の宣言をしました。レハブアムが民に反発したので、民もレハブアムに反発したのです。これは人間が神の似姿として創造されたからです。神は人間の態度にそのまま応じられる御方です。それゆえ、神の似姿である人間も、誰かの態度にそのまま応じる傾向を持っているのです。ここで民が『ダビデには、われわれへのどんな割り当て地があろう。』と言っているのは、つまりもうダビデ王家が全イスラエルの相続地を支配できなくなるということです。『ダビデ』とはダビデ王家およびダビデに連なるレハブアム王のことです。『われわれ』とはユダを除くイスラエルの10部族です。民はもうイスラエル10部族の『割り当て地』にダビデ王朝が関われなくなると言います。これは10部族がこれからダビデ王朝とそのレハブアムの支配から独立し離れることを意味しています。『エッサイの子には、ゆずりの地がない。』と言われているのも、同様の意味です。『エッサイの子』とはダビデ家とダビデに連なるレハブアムのことであり、『ゆずりの地』とは10部族における相続地のことです。これまでダビデ王朝は10部族の相続地をも支配できていました。しかし、もうダビデ王朝は10部族の相続地から遠ざけられてしまいます。『イスラエルよ。あなたの天幕に帰れ。』と言われているのは、もうこの件が完全に決着したからです。もう話が全て決着したのであれば、どうして民がレハブアムのもとに留まっているべきでしょうか。民はさっさと帰るのが望ましいのです。ここで『イスラエル』と言われているのは、ユダ族を含まないイスラエルの部族を意味します。『ダビデよ。今、あなたの家を見よ。』と言われているのは、ダビデ王家がこれから受ける惨めさを注目させようとしています。『家』とはダビデに連なるユダの王家です。その王家はこれから支配力をほとんど失って悲惨になります。民はこのように言うことで、ダビデの子孫であるレハブアムに思い知らせようとしています。こうしてイスラエルの10部族は、それぞれ『自分たちの天幕へ帰って行』きました。この時の状況を考えるならば、彼らが帰宅する際は恐らく穏やかさを持てていなかったかもしれません。しかし、もうこれまで課されていた過酷な重荷から解かれるというので多かれ少なかれ喜んでいた可能性もあります。レハブアムのほうはと言えば、間違いなく平穏さが無かったでしょう。もし民からこのように反発されても平穏でいられたとすれば、レハブアムは狂人か愚か者だったことになります。