聖書の学び

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Ⅰ列王記19:4(2024/06/15)

【19:4】
『彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。』
 エリヤは、ここまでずっと苦難の歩みが続いていました。その苦難がどれほどであったかは想像もできないほどです。何故なら、エリヤのような苦難を私たちは誰も味わったことがないからです。まずエリヤにはアハブの齎す苦難がありました。アハブはエリヤを敵視しており、そこら中でエリヤを探し回りました。つまり、エリヤは指名手配犯のような状態となりました。このため、アハブはエリヤと会った際、『イスラエルを煩わす者』と非難されたわけです。このような取り扱いがエリヤの苦難だったことは間違いありません。またエリヤにはやもめ女の子が死んだことによる苦難もありました。子どもが死んだ際、女からエリヤのせいで死んだかのように責められたからです。神がその子を生き返らせて下さいましたから結果的には問題なかったものの、このように責められるのはエリヤにとり辛かったはずです。そしてバアル崇拝者たちとの戦いによる苦難もありました。自分の同胞であるイスラエル人たちが忌まわしい空想神を崇めており、その預言者たちを処刑せねばならないというのは、エリヤにとって喜ばしくなかったはずです。もしこのようになっていなければエリヤにとってどれだけ良かったでしょうか。更にエリヤはイゼベルの殺害宣告による苦難もありました。エリヤはその宣告を聞いて『恐れた立ち』、イゼベルから逃げ去ったのです。アハブ王の妻からこのように言われたエリヤに平和は無かったことでしょう。こういった数々の苦難が続いたため、エリヤは自分の死を神に願い求めました。生きているのが耐え難くなるほどの苦難がエリヤにはあったからです。今でも人生の苦しみに耐えられなくなった人は、死ぬことを願うのが珍しくありません。ここでエリヤは『もう十分です。』と言っていますが、この言葉が全てを物語っています。エリヤはあまりの苦難に疲れ果てたため、このように言うより他なかったのです。この言葉はエリヤがどれだけ苦しんだかよく示しています。先に見た通り、この時のエリヤは若い者をベエル・シェバに残して来ましたが、エリヤがこのようにしたのは、死ぬのは自分一人だけでよく、若い者に煩いをかけさせたくなかったからなのでしょう。つまり、若い者に対する配慮のため、若い者はベエル・シェバに残されたわけです。エリヤはこういった配慮をする人だったはずです。このようにエリヤは死を神に願いましたが、自ら死ななかったという点は注目すべきでしょう。エリヤは自殺を選ばず、寧ろ神に死なせていただくことを求めました。エリヤでさえこのように自殺を選ばなかったのですから、やはり自殺はすべきでない行為だと言えるのです。