聖書の学び

聖書の学び

Ⅰ列王記2:7~8(2023/07/05)

【2:7】
『しかし、ギルアデ人バルジライの子らには恵みを施してやり、彼らをあなたの食事の席に連ならせなさい。私があなたの兄弟アブシャロムの前から逃げたとき、彼らは私の近くに来てくれたからだ。』
 ヨアブが罰せられるべきだと言われたのに対し、バルジライの子らには良くしてやるようここで言われています。バルジライがダビデにどのような行ないをしたかは、もう既に確認した通りです。ダビデはこのバルジライの行ないを忘れていませんでした。ダビデがこのようにバルジライの子らに報いて良くしようとしたのは、御心に適っていました。何故なら、パウロはⅠコリント書13章で『愛は礼儀に反することをせず』と言ったからです。ダビデはバルジライの子らが、ソロモンの『食事の席に連な』るよう指示します。王の食卓に与かるというのは非常な光栄となります。バルジライの善はこのようにして報いられることとなったのです。私たちもバルジライのように善を行なうべきでしょう。そうすれば主に喜ばれます。善を行なうべきだというのは、聖書の全体が命じていることです。この通り、ヨアブは罪のため罰せられ、バルジライは善のため報いられることとなりました。この2人の違いは、善を行なったか悪を行なったかという点にあります。ヨアブとバルジライの行ないおよびその受けることになった報いは、あまりにも異なっています。

 

【2:8】
『また、あなたのそばには、バフリムの出のベニヤミン人ゲラの子シムイがいる。彼は、私がマハナイムに行ったとき、非常に激しく私をのろった。しかし、彼は私を迎えにヨルダン川に下って来たので、私は主にかけて、『あなたを剣で殺さない。』と言って彼に誓った。だが、今は、彼を罪のない者としてはならない。あなたは知恵のある人だから、彼にどうすれば彼のしらが頭を血に染めてよみに下らせるかを知るようになろう。」』
 ダビデはシムイが自分に行なった悪事も忘れていませんでした。前に見た通り、シムイはダビデを『非常に激しく』『のろった』のです。これは『民の上に立つ者を呪ってはならない。』という律法に違反していますから、死刑に値しました。しかし、後ほどシムイはダビデを迎えにヨルダン川へと来たので、死刑を免れることができました。つまり、ダビデはシムイに情けをかけたわけです。しかし、ダビデはソロモンの治世においてこのシムイを殺すべきだと指示します。これはシムイがソロモンとその治世にとって脅威となりかねなかったからなのかもしれません。ダビデが生きている最中は、シムイのことで多かれ少なかれ安心できたのでしょう。しかし、ダビデが死にソロモンの時代となれば、このシムイがどうなるか分かりませんでした。シムイもやはり『しらが頭』となっていました。ダビデは、シムイが律法で敬われるべきだとされている白髪の老人だったとしても、情けをかけようとはしません。つまり、容赦なく死刑にするよう命じています。白髪という外面的な特徴が免罪符になるという法はどこにもないからです。ダビデはシムイをどのようにして死なすべきか何も指示していません。これはソロモンが『知恵のある人だから』でした。ソロモンは知恵者だったので、たとえダビデが何も言わなくても、シムイに対してどのようにすればいいか分かる人だったのです。こうしてシムイも結局は報いられることとなりました。罪を犯したその当時はまだ何も起こらず大丈夫だったかもしれませんが、このようにしてやがて悲惨な報いが下されることになったのです。もしシムイがダビデを呪っていなければ、ソロモンの治世でもずっと生き続けられたことでしょう。私たちはシムイのようにならないため、悪の道から離れねばなりません。このシムイもそうでしたが、悪に対しては報いが与えられます。それゆえ、私たちが悪を行なうのは将来の自分を不幸にすることなのです。