聖書の学び

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Ⅰ列王記22:5~6(2024/09/14)

【22:5】
『ヨシャパテは、イスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってみてください。」』
 ヨシャパテは全面的に協力するつもりでいたでしょうが、しかし主の御心を重視していました。協力するつもりがあっても、もし主の御心でなければどうしようもありません。御心でない場合、協力すればヨシャパテは罪を犯すことになるのです。ですから、ヨシャパテは『まず、主のことばを伺ってみてください。』とアハブに言います。そうすれば、主がこの戦いについて御心を示して下さるからです。もし御心であればヨシャパテは協力し、御心でなければ協力できません。つまり、ヨシャパテが協力するかどうかは『主のことば』に全くかかっていました。このようにまず主の御言葉を伺うというのは、完全に正しい態度でした。何故なら、聖徒たちは御心を抜きに何かすべきでないからです。ですから、私たちはまず伺いを立ててから事を行なうべきなのです。そうすれば、神は何らかの形で御心を必ず示して下さいます。そうしてから私たちは、このことを、またはあのことをすべきなのです。ダビデも、いつも伺いを立てていました。もし伺いを立てなければ、神の御心を損ない、罪に陥ることともなります。

 

【22:6】
『そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、』
 ヨシャパテが主の御言葉を伺うべきだと言ったのは、アハブにもその通りだと思えたことでしょう。アハブも神の民でしたから、「どうしてそんなことをするのか。」などとは言えませんでした。ですから、アハブはヨシャパテが言った通り、『主のことばを伺』うことにします。こうしてアハブは『預言者を召し集め』ました。この預言者たちから神の御言葉を受けるのです。この『預言者』は偶像の預言者と違ったことでしょう。何故なら、偶像の預言者はもう既にエリヤとの戦いで消し去られていたからです。この預言者が『約四百人』だったのは、十分な数を示す「40」かける完全数「10」に分解できるでしょう。つまり、預言者たちは多くおり十分だったことを示しています。