聖書の学び

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Ⅰ列王記5:3~4(2023/08/11)

【5:3~4】
『主が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、彼の神、主の名のために宮を建てることができませんでした。ところが、今、私の神、主は、周囲の者から守って、私に安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。』
 ダビデは宮を建てようと願っていましたが、しかし建てることはできませんでした。ダビデはもし宮を建てられたとすれば喜んで建てていたでしょう。しかし、神はダビデに宮を建てさせられませんでした。多くの血を流したダビデが、しかも平和でない時期に、宮を建てようとするのは、望ましくなかったのです。というのも神とは平和の神だからです。何事であれ「それを行なうのに相応しい者」がいます。ダビデは明らかに「宮を建てる者」でありませんでした。それに相応しいのはソロモンだったのです。

 

 しかし今や、もうイスラエルには平和と安全と繁栄と幸福とが神から与えられていました。かつてイスラエルに敵対していた異邦人たちも、今やソロモンの『足の裏の下に置かれ』ていました。『足の裏の下に置かれる』とは、敵がソロモンの支配のうちに服させられるという意味です。ですから、もう今や時代がすっかり変わったのです。そのため、もう平和となったので、宮を建てるべき時期が来ていたのです。このような時期は神が作り上げられた時期でした。何故なら、全ては神の意図に基づいて起こるのだからです。パウロが『すべてのことが神から発し』ているとローマ書13章の箇所で述べた通りです。近代で戦前と戦後において時代が変化したのも、やはり神の意図に基づいています。すなわち、神の働きかけにより、1945年を境として時代が変わったのです。私たちは聖書的な有神論に堅く立ちましょう。理神論は糞喰らえのゴミ箱行きです。